枷なき夢路


登場人物:統(あまね)・静音(しずね)・一人称の人物(友人)

   轟々と雪の嵐が窓の外に狂い咲いている。
 団地の狭い浴室から今までに感じた事がない種類の、気味の悪い音が聞こえて来る。時折窓枠が強風で不協和音を奏でる。
 灰色のコンクリートが剥き出しの浴室。この町に引っ越して来てから使った事がない場所。親が住んでいる向かいの部屋の浴室を普段は使っている。だから使った事がない。
 こちらの部屋は水なら出るがガスを通していない。兄との勉強部屋として家賃一万五千円で親が借りた部屋だ。電気と水だけは通っている。暖房は灯油と電気で暖めるストーブしかない。兄は最近、彼女のアパートで同棲を始め帰って来ない。好都合だった。だが、これで良かったのか。せっかく難関高校に受かったばかりなのに。こんな事をして良いのか。わからない。
 ゴリゴリと濡れた木を擦る様なくぐもった耳障りな音が聞こえ始めた。全身が凍てつく浴室にて古い蛍光灯の濁った明るさの中で親友の統が人間の皮膚や筋肉、血管や骨を切っている。
 場所は貸すと言ったが手伝うとは言い出せなかった。親友の頼みだから可能な範囲では協力するつもりだ。他言は絶対にしない。統が守りたい静音の為にしない。彼女の事は統の様に表からは守れない。それなら影から守りたいと思う。
 ストーブに両手を翳しているのに感覚がない。両手の、加えて全身の震えが止まらない。真っ赤な小さな炎に照らされて手の輪郭が朱色に縁取られている。手の甲には血管が見える。人の体はノコギリで切断して行くと、一体どのくらいの時間がかかるのだろう。
 静音の様子だけでも見たくて、障子を細く開けてみる。
 僅かな隙間から見えるショートヘア。剃刀かカッターで適当に切られた髪型。横顔は陶器か紙粘土で作られた様な不自然な白さ。黒目の周囲だけが潤んで光っている。表情は失われている黒目。どこか、死にかけていて動かない魚の目にも似ている。制服のまま立ち尽くして凝視している。死体を切断している彼女の双子の兄を。
 彼らは二卵性双生児だからなのか、あまり似ていない。外見もそうだが、性格が。尤も静音は必要性がないと口を開かない。表情も動かない。そのせいで考えている事が掴めない。
 統は話す内容も思考も明晰だ。見た目も凡庸でなく人目を引く整った容姿をしている。静音が風景に溶け込む雰囲気を醸し出しているのと対照的に。
 静音の顔を凝視していると、彼女の口角が一瞬吊り上がった。目は……浴室の床に注がれている。あの死体に。切られる死体を観て、笑ったのだろうか。
 「どうして笑ったの」
 どうやって問おうか思案する前に尋ねていた。
 静音は表情の薄い目でこちらを見る。
 「私、笑ってた?」
 頷いて肯定する。会話はそれで途絶え彼女はまた浴室に視線を落とす。
 死体ではなく統を見ているのだと思う事にした。
 ゴリゴリという不気味な切断音は断続的だ。
統が苦心している事を思うと手伝った方が良いのか息苦しい程に迷う。
 場所だけを貸すと言ったものの、それだけで良かったのか……本当は場所を貸しただけでも大変な事に違いない。
 親友がしなくても良いはずの苦労を背負い込んでいる。統が選んでその苦労に飛び込んだのだとしても。もういっそ作業を共に進めてしまえば、この手の震えも無くなるかもしれない。
 「手伝おうか」
 平静な声は努めて出した。
 「お前はやらなくて良い、後で夢に出て来るのもしんどいだろ」
 いつも通りの優しい話し方で統は答える。やらなくて良い、そう言われて心からほっとした。同時に体中が気怠く重く、意識すると更に重くなった。
 静音も手伝ってはいない。ただ統を見守っている。
 統は自宅からノコギリを二本、剪定鋏一本、ドイツ製だという果物ナイフ一本を持って来ていた。途中で「切れなくなった」と統が言い、静音が次のノコギリを差し出している。あれで間に合うのか。死体になった中年の男の体は思いのほか巨大に見えた。今日、ここに誘き寄せて統が殺したばかりのそれは。
 後日、統はノコギリを通販で一本購入して自宅に補充するらしい。ノコギリもナイフも統の父親は頻繁に使わず、無くなっていても引っ越しの際に捨てたと言えば誤魔化せるそうだ。剪定鋏はネットで購入したと言っていた。
 思いついて、向かいの親の家から錆びた小型のノコギリを持って来た。父親がもう切れなくなったからと半年前に不燃ゴミとして自治体指定の袋に入れたまま、ベランダに放置していた物だ。これは無くなっても気付く訳がない。知らないかと聞かれても、代わりにゴミに出しておいたと言える。
 統にそのまま伝えながら手渡した。錆びているから使えないかもしれないけれど。
 統はこの寒さの中、額にじっとりと汗を浮かべていた。ゆっくりと受け取った彼の手。サージカルグローブという医療用のクリーム色の手袋をした手は、まんべんなく血液に塗れていた。
 顔を上げた統は普段通り丁寧に「ありがとう」と言う。その目があまりにも普通で、むしろいつもよりも一層澄み切っていて、違和感に似た寒気が背中から忍び寄って来る。彼にとっては、目の前の所業は自然で当たり前の事なのだ。
 親友であるはずの人間が、全くの別人に見える。
 今夜は、統と静音が泊まって行く。考えが至らなかったが、死体を切った浴室があるこの小さな家で今後一人で過ごさないとならない。
 幽霊などは信じていないから関係無いが、生理的には気持ちが悪い。とは言え当の浴室に入るわけでもないし、静音が時々来てくれるのだろうから別に良い。
 静音の家は分かりやすく崩壊していた。彼女が十歳の頃からだと言う。母親は帰宅せず、山間部の旅館で住み込みの仲居をしている。彼女の義理の父親は時々失踪するが、気まぐれに帰って来ると虐待を彼女に対して始めるそうだ。
 静音の虐待の話は詳しく聞いていない。少なくとも彼女からは。口を噤んで話そうとしないからだった。
 兄である統から聞いた。
 二人は双子として産まれ、二歳までは一緒に暮らしていた。二人が二歳の時、彼らの両親は離婚、統は父に静音は母に引き取られた。
 統は父と二人暮らしだ。彼の父には何度も会った事がある。寡黙で、見る限りは本ばかり読んでいる人だった。理知的な目が統に瓜二つだった。仕事は大学の講師とだけ聞いていた。
 静音と統は、四校の小学校が集まる公立中学で再会した。しかし静音は統を覚えていなかった。統は父が所有していた双子の母子手帳を折りに触れ、繰り返し見ていたそうだ。
 クラスは異なるが偶然に静音という名の女子を見つけた際、彼女の誕生日と血液型を聞き出した。そして母親について尋ねたのだ。
 統の苗字は掛河だが、静音の苗字は湯本。母親が再婚していたせいだ。「母が再婚する前は掛河だった」と彼女は話した。
 二人は当然の様に一緒にいる事になった。統の父は静音の父でもあるから、統が彼女を連れて帰れば父は喜ぶらしかった。だが二人が男女の関係にまでなっていた事を、もちろん二人の父は想像もしていない。
 統とは中学入学後からの付き合いだ。彼の聡明さは話をして直ぐに分かった。静音の話をされたのは中三になってから。
 中二で静音と同じクラスになって以降、他の女子の様に群れたり騒いだりしない彼女に惹かれていた。
 女子の集団に入らないという事はいじめられているという事かと心配したが、彼女は敬遠されているだけだった。女子群に無視されているわけではなかった。静音はあんまりにも周りとは違う空気を纏っていたから、良くも悪くも周囲を圧していた。
 彼女は変に大人びていて、湿って鬱蒼とした森に囲まれているかの様な雰囲気を持っている。彼女自身が木の様相でじっと人を監視している。かと思えば全く誰にも興味が無い様子でつっと目を逸らす。話しかけても最低限の応答しかしてくれない。
 静音は美術部だった。美術には興味が無いが、放課後に美術室で同じ時間を過ごしたくて水泳部との兼部届を出した。
 スイミングは六歳からスクールに通っている。部活の練習に出なくても全国大会に出場が可能なレベル。
 ある時、美術室で二人きりになった。静音に何度も話しかけていたら彼女に美術準備室へ手招きされた。そこで初めてキスした。
 梅雨の日だった。雨の匂いが噎せる程に美術準備室に立ちこめていた。あの匂いは忘れられない。
 統を裏切っているなんて知らなかった。彼に静音とセックスをしていると聞いたのは、その一年後だから。その時には彼女とキスの先にとっくに進んでいた。
 統には、静音とそうなっていると話していない。罪の意識はいつも有る。でも静音とは変わらずに時々会っている。統との友情も続いている。彼女から彼に話す事は決して無いだろうと思っている。理由はよく分からないが。
 静音が恐ろしい仕打ちを彼女の義理の父親から受けていたと知ったのは、本格的に受験勉強を始めた時期。中三の八月。夏休み中だった。
 統は県で最も偏差値が高い公立高校の理数科を受験すると言っていた。彼は学年で常に一位を独走していた。どうにか抜こうと頑張っても決して出来なかった。統は五科目満点しか取らない。志望は彼と同じだ。
 統が、静音は体中に傷があるのだと何気無く言った。そう言われるまで、彼女の体に傷があることを知らなかった。暗い部屋でいつも彼女と寝ていたからだ。
 何の傷なのか尋ねたら「刺し傷」と統は答えた。誰かに刺されたという事か重ねて聞いたら「あいつの義理の親に」という返事だった。
 その後から静音の様子を注視する事にした。すると確かに彼女の肌を撫でると奇妙な凸凹を感じた。窓から洩れる月明かりでよく見ると、夥しい数の傷が体じゅうに……目に映る範囲の全てに傷がぎっしりと隙間無く有るのがわかった。視認した瞬間に自分の肌がぞわっと怯えた気がした。
 次に静音が家に来た時、虐待の話を詳しく訊いてみる事にした。
 彼女はこの家に勉強しに来ていると言っていた。自宅では怖くて寝られないのだと言い、勉強する訳ではなく殆どの時間を眠って過ごしていた。保健室でもよく寝ていた。
 でも成績は悪くない。授業を聞いていれば理解は出来るらしい。双子だけあり、統と頭の造りが似ている。彼と同じ高校に進学出来る程度には。
 「虐待されているの?」……率直に尋ねた。静音は焦点が合っていない目をして、おもむろに首を振った。
 彼女は時々、視線が定まらなかったり焦点が合っていない事が有る。栄養状態が悪いのか、顔色はいつも青白く異様に痩せてもいた。学校の昼食は弁当かコンビニや購買のパンか食堂利用が主流だが、普段から食事をしている様子が無い。
 学校で時折、静音の体からきつい酒の臭いが感じられる事が有った。そんな時の彼女は陽炎の様に揺らめいて歩き、ひどい頭痛がすると言って体育館倉庫の奥で野良猫よりも侘しい姿で丸まって眠っていた。
 あまりにも異様な状況だと、彼女は保健室には行かない。周りが騒ぐからだろう。
 学校と役所が虐待ではないかと囁き出したのは秋の初めだった。静音は生活指導室に何度も呼び出されていた。役所の職員が学校に来ていた。彼女は虐待について、いつも完全に否定していた様だ。というのは統経由で聞いていた。
 虐待を認めると、静音はそれに纏わる話を他人にしなければならなくなる。それは心理的に二重の辱めになるのだと統が言っていた。そして、この辺りからは離れた場所の福祉施設に入れられる。すると統に会えなくなってしまう。だから静音は彼女の父にも言わなかったのだ。彼女は実の父に対しても、打ち解けず遠慮をしていた様だ。
 虐待の真相はもっとずっと酷く陰湿で、手が付けられない階層の内容だった。というのも統経由で後から聞いた。
 静音は性的虐待に遭っていた。十歳からの話らしい。それも静音が統にのみ伝えた事で、真実かどうかは分からない。静音が統に嘘を吐いたかも知れないのだが……理由としては何があるだろう。
 統の意識を静音だけに集中させておく為?そんな事をしなくても彼は彼女に夢中だ。では何だ。義理の父親を統に憎ませて殺害させる目的で。
 殺害したい程の動機。では、やはり静音は虐待をされていたのだろう。どんな被害を受けたのかは闇の奥に封じられているけれど、彼女にとっても統にとっても許す事が出来ないくらいの。
 統が静音を守る為に、或いは彼女の代わりにその中年の男を殺すと決意したタイミングはいつだったのか。
 静音が髪を切られた時だろうか、そんな安易に見える事がきっかけではない気がする。
 最初に、統からはこう相談を持ちかけられた。『殺したい人間が居る。絶対に失敗しないから協力して欲しい』と。
 殺人がそんなに簡単に成立するものか。だが統の計画は、一通り聞いた限りは綿密だった。
 静音の義理の父という立場の男は、この地域に帰って来ると静音がどこに居るか探し回っていた。
 多くの場合、静音は統の家に居た。統の家に迷惑が掛からない様に彼女は仕方なく一時的に自宅に戻っていた様だ。そして義理の父が酔って寝てしまうと、統の家に戻って眠る様な生活だったらしい。
 統の父、静音の父でもある人は離れて暮らす娘が危機的状況に在る事を知らなかった。静音が話さなかったからだ。
 統と静音以外は、詳細が分からない事情。微妙なバランスの上で成り立ち、周囲を誤魔化して日常は動いていた。
 静音は統の父に状況を知られる事を警戒して、夕方は近所の公民館内の図書室に居る様にしていた。
 だが今日は、公民館の玄関に有る大きなホワイトボードに義父への伝言を彼女は記した。この団地のこの棟のこの部屋番号を書いた。
 『友達の家にいます。咲花雇用促進住宅/若葉棟B-406 しずね』こんなメッセージだった。静音の義父がそれを見て立ち去った後、この手で消したのだから間違いない。
 他に誰かがその伝言を見たか?……見ていない。彼女の義父が来るまで公民館のトイレから見張っていたのだから確かだ。
 静音は確かにこの部屋の押し入れに潜んでいた。隠れていた。出迎えたのは統だ。
 ドアチャイムを鳴らした義父は「ここに静音が来てるか?静音の父親だ」と言った。玄関には静音のローファーが有る。統は「来ています。どうぞ」と言って招き入れた。
 義父が廊下に上がり、統はドアを閉めた。そして靴箱に隠してあった金槌で義父の頭部を激しく殴打したのだ。
 公民館から走って先回りし、奥まった洗面所の壁の陰からその様子を自分は見ていた。統は当然だが一瞬も手加減していなかった。何度殴打したのか数え切れなかった。十数度も統はやり続けたと思う。そこに在ったのは強烈な憎しみと冷静な怒りだけだった。
 血が壁に菊の花弁より細かく散っていた。男の頭部は不自然に凹みが出来ていた。出て来た静音は死体を無言で見下ろし、ごく自然な動作で統が持って来たサージカルグローブを付け、念入りにキッチンアルコールで血痕を拭き取った。彼女は全く動揺していなかった。更にその上から、丁寧にクレンザーで床や壁を掃除した。これらの洗剤は統が持参した。
 統は「風呂場にこれを引き摺って行く。手伝って欲しい」と言った。やはり動揺など一切無く、いつもの彼の穏やかな話し方だった。
 死体はやたらに重かった。灯油缶より変な不気味な重さがあった。サージカルグローブの上に軍手をしていたが持った脚の感触が嫌だった。関節や骨が自分と同じ様にある、それが二度と動かないという物体を手にしている事の疑問。異常さ。
 「後は一人でやる。ありがとう」そう統は言った。彼が遠い地点に居る人間に見えた。今、隣に居るのに。
 部屋に戻って畳に座ると、意味の無い前後運動を繰り返してしまった。意思とは無関係だ。体が勝手に動く。静音が掃除中に立てる微かな音が大きく耳に障る。そのくせ浴室の音は何枚かの膜を張った所から聞こえる様に感じる。聞きたくない。完全にあの音を耳から削り取る事が出来れば、どんなに良いだろう。
 目眩が始まった。前後に激しく動き過ぎたせいだった。目の前の障子がブレて見える。ちょっと手伝っただけでこんな風になるのに、統の精神は大丈夫なのだろうか。
 密やかに襖が開いて、静音が部屋に入って来た。
 「掃除、終わった?」
 尋ねてみると彼女は殆ど頭を動かさずに頷いた。ほぼ瞬きのみで肯定をする動作。
 「統はまだ作業してるの?」
 言ってから変な表現かなと思った。作業って何だろう。業を作る事。
 「袋に、部品……を入れている」
 静音は更におかしな言い方をした。死体の一部を指して、部品。
 静音はこちらを潰す様な強い目線で見下ろした。そして「怖い?」と珍しく尋ねて来た。
 「怖くないよ、何で?」
 何で聞くのかと疑問に思って問い返した。
 「すごく震えているから」
 指摘されると、確かに全身が高い熱を出したかの様に震えていた。気付いてしまうと恐ろしい気持ちになり、黒々とした静音の目を見上げた。
 柔らかい静音の体が覆い被さって来た、と思ったが違う。こちらから抱き付いていた。静音は無表情のまま優しい仕草で抱き返してくれたが、どこかが事務的だった。
 浴室からは重い物を動かす音、ビニール袋の擦れる音が時に大きく聞こえる。
 「また掃除して来なきゃ」
 言い置いて、静音は立ち上がる。切り替えの早い動きだった。襖が音を抑えて素早く閉められた。
 台所で二人が囁き声で話し合っている。ガサガサとビニール製の物が鳴る音、そしてガムテープを引き出してから切る音。続いて水音。何かを洗っている様だ。
 部屋を出て後悔した。統は両脚、両腕、胴に血だらけの大きなビニール袋を巻いていた。手袋をしたままハンドソープで顔や髪を洗っていたのだ。床にもビニール袋を敷き、ガムテープで留めていた。
 「洗うのを手伝うよ」
 仕方なく言った。仕方なく言ったのを統は分かっていると感じた。
 「いいよ、血が付着するから」
 タオルで髪を拭きながら、ゆったりと穏やかに、しかし他人行儀に彼は答えた。そして慎重に両腕のビニール袋を取り、続いて胴に巻いた袋を、最後に脚部分に巻いていた袋を片方ずつ脱いで行った。そして全てのビニールをシンクに入れた。
 たちまちシンクは血に塗れた袋でいっぱいになる。
 統は袋に水をかけた後、塩素漂白剤のスプレーを振り撒いた。しばらくしてから水を出し、ビニールを揉み込んで袋の血を完全に流している。
 軽く水を払ってから自治体の指定ゴミ袋に入れてしまうと、統は血で汚れた床のビニールを丁寧に剥がして行った。シンクにビニールを入れ、また水をかけ塩素で綺麗にしている。
 そのビニールもサージカルグローブも使ったタオルもゴミ袋に入れてしまうと、ようやく息を大きく吐いてこちらを向いた。
 よく光る統の目。恐れも不安も辛さも苦しみも感じていない目だった。かと言って喜びや達成感も無い。ただ目の前の事を粛々と片付けている目だ。
 「明日、田舎の家にあれを電車で持って行く。お前も来る?」
 あれ、というのは切断した死体の事だ。統は確認をしているだけだと分かった。脅しに似た強制をしている訳じゃない。
 「行くよ。二人じゃ大変だろうから」
 実際にそうだろうから即答した。
 「ありがとう」
 統の目の中には安心や安堵が見つけられない。だが彼は繰り返した。「本当に、ありがとう」
 やがて静音が浴室全体と廊下、台所の床の掃除を終えて部屋に戻って来た。統は畳に仰向けになり、両手を腹部で組んで目を閉ざしている。寝ている訳ではなさそうだが身じろぎをしない。
 彼らは今夜、入浴が出来ない。作業の後、気分を少しでも直して欲しかった。夏に使っていたバッグからミントのデオドラントシートを取り出し、静音に手渡しておいた。
 「夕飯を食べて来る。何か食べ物を親の家から持って来るよ」
 どちらにともなく声を掛けると、統が答えた。
 「夕食と朝食分のパンを買ってある。ペットボトルのポカリも。近くにマックも有るし」
 分かった、と言った。しかし足りないだろう。静音は物を食べているところを見た事が無い程に少食だが、統は平均的に食べる。

 親の家には夕飯時、母親しかいない。
 メニューは焼き魚……塩鯖だった。ポテトサラダ、ほうれん草の胡麻和え、味噌汁、漬け物。
 何となく魚は食べる気になれない。普段は肉料理が好きだが、今は肉を見たくなかった。せめて魚で良かった。魚が視界に入らない様にしながら、他の物を平らげた。しかし魚の臭いがするだけでも嫌だった。まとめて味噌汁で流し込む。味は感じなかった。舌が麻痺しているのか、味覚以外のどこかの感覚が麻痺しているのか分からないけれど。
 「何、食べないの。珍しい事」
 訝しんだ声で母が言う。せっかく用意したのに、と半ば怒りを含んでいる声。
 「ごちそうさま」
 直ぐに立ち上がった。母の顔を見るのが難しかった。
 台所の雑多な棚から、醤油団子と辛味の煎餅が出て来た。団子なら腹持ちが良さそうだ。辛い物なら、あんな事の後でもきっと食べられそうな気がする。
 大きめのカップに番茶を注いだ。静音と統が飲める様に。
 急いで統と静音の待つ隣家屋に戻る。
 彼らは先程と同じ様に身動きをしていないだろうと、何となく予想していた。が、違った。襖から床を特定のリズムで擦る音が聞こえて来た。統の息遣い。静音の気配は感じられないが、時々小さく喘ぐ声がする。二人があの後で、短い交わりの時間を持っている事は当然な気がした。急に察しが付いた。もっと早く察せていれば、こんなに早く戻って来なかったものを。
 引き返そうかと思ったが、玄関の重量が有るドアを再度開け閉めしたら統が勘付くかも知れない。仕方なく両手に食べ物を持ったまま佇んでいた。
 急激に弧を描く様に大きくなった音と声が止んだ。統が囁き声で何かを静音に伝えている。どちらかが立ち上がる気配、それから襖を開ける気配がした。
 それに合わせて玄関ドアを細く開き、閉めた。たった今、戻って来た風に装う。
 出て来たのは静音だった。「お帰りなさい」と固まった表情で言う。彼女はいつも固い表情だ。驚いたのかどうかは分からない。反射で「ただいま」と答えた。平常心を装ったが、平常な態度に見えたかどうかも分からない。
 静音はトイレに入った。トイレの床はコンクリートで、入居した時からなぜだか濁った水色のペンキが直接、床に塗られていた。寒々しいトイレで申し訳なく感じた。時々彼女が来るのだから、スリッパくらい置いておけば良かった。
 部屋に入ってみると瞬間的に、精液の臭いがした。さっき渡したデオドラントシートのミントの匂いもする。普段使っているからこそ、嗅覚が二つを嗅ぎ分けてしまう。意に反して笑いたくなって来た。今日起きた事、今、目の前で起きている事の全部が冗談の様に思える。
 「食べ物を持って来たよ」
 笑顔で統に差し出した。不自然には見えなかったと思う。統は聡い。お互いに暗黙の了解でスルーすれば良い。
 「ありがとう。お前が居て助かる」
 統にそう告げられると、単純に誇らしい心地になった。
 外は風が強い。冬の匂いが窓の隙間から忍び入って来る。窓枠が風の強さに耐え切れず、時折思い出した様に鳴る。いつもは気にならない音。今日はやけに耳につく。
 静音が部屋に戻って来た。
 「もう眠りたい」
 彼女は実に眠たそうな目をしていた。
 「三人で寝るより静音だけ別が良いかな?隣の兄の部屋にまだベッドが残っているけど」
 兄が使っていたベッドだ。マットレスが有る。和風の重い掛け布団が押し入れに圧縮されて片付けてあった。
 静音が頷いたので、隣室の押し入れから掛け布団を出した。ベッドに広げる。
 「ありがとう」
 お礼のトーンが統と一致していて、この二人は双子なんだなと改めて思った。
 統には仕方ないが一緒の布団で寝て貰う事にした。まだニ十時だが彼も疲れて眠そうに見えた。彼らが入浴出来ないのに自分だけ風呂に入るのも悪い。下着を替えパジャマに着替えて歯を磨いてから横になった。
 統は番茶を一口だけ口に含んだ。直ぐに横たわる。
 実は静音とはいつも兄のベッドで寝ていたので、彼らを兄のベッドに寝かせるのが何となく嫌だったのだ。
 それなのに統は布団に入ると
 「お前は何にもこだわりが無くて、こうやって布団に入れてくれて嬉しいよ」
 と言った。
 「そうかな」
 天井の木目を見ながら答えた。天井には渦巻き模様が幾つも幾つも描いたかの様に有るのだった。寝る前に時々、数える事があった。いつも幾つ有るのか、結局数え切れずに眠りに就く。そして翌朝には渦巻きの数の事なんて忘れてしまう。
 「そうだよ。寝床って最もプライベートな場所だと思うな」
 統はよく、こうした精神性に関した話をする。
 「そうかなあ。トイレの方がプライベート空間だと思うけど、それと風呂も」
 寝ているところは見られても良いが、トイレ中は見られたくない。風呂は別に良いか。
 「トイレや浴室は家族も使うよ。そこで過ごす時間や状況じゃなく場所自体の話」
 ああそうか、と言って笑う。統も笑った。あんな事の後で笑い合えている。統の存在を近くに感じた。彼の体ではなく、彼の思考や心の在り方を。
 「こんな事を聞いたら気を悪くするだろうけど、人を殺すってどんな感じがしたの」
 喉につかえていた事を聞いてしまったのは、楽しい笑いの波がお互いに潮を引いてから直ぐだった。
 統は黙っていた。
 「ごめん、聞かなきゃ良かった」
 慌てて言うと、彼が口を開いた。
 「害虫が出たら殺虫剤を撒くだろ?それと同じ」
 それを言った後に彼は、ゆっくりとあくびをした。
 殺虫剤。
 中学に上がった年の秋だったか、トンボが部屋に入って来た事が有った。どうやっても外に出せなくて、捕まえられなくてイライラした挙句に思い余って殺虫剤をかけてしまったのだ。
トンボは苦しそうに尾を曲げて……長い間苦しみ、絶命した。後悔して恐ろしくて、泣いた。
 やはりトンボだったが、六歳の頃に壁に留まっていたトンボを捕まえようとして羽を押さえた後、空中に持ち上げようとしたら勢いでトンボの体を左右に破ってしまった事が有る。白いドロリとした液が溢れた。恐怖で悲鳴を上げ、自宅に逃げ帰って来た。押し入れにしまってある布団に潜って泣き続けた。
 同じく六歳くらいだった頃に母親が台所でゴキブリを見つけ、どうしてか袋の中に捕らえて袋ごと台所の壁に打ち付けて殺していた事も有った。母親は父親と喧嘩した後で、あれは明らかに八つ当たりだった。母親の姿も恐ろしかったしゴキブリが可哀想だと思った。
 昆虫の命ですら、命が亡くなる時は本当に怖いと感じた。身近で死んだ人は、まだ居ない。今日初めて人が死んだのを見た。
 統は躊躇が無かった。彼の所業は終始恐ろしかった。が、何でこんなに清々しい心地が同時に有るのだろう。
 あの男が死んでも良い命だったから?死んでも良い命なんて有るのだろうか。
 では死刑囚は。死刑囚は、法律の専門家が複数人で死刑だと裁定する。
 統は、神の様に裁きを下してしまった。それが間違った事なのかどうかが分からない。
 法律では間違いなのだ。だから見つかれば統は少年院に行く。手伝ったという事で自分も共犯だろうけれど、もう怖いという感情は無かった。
 解体は本能的に怖かったが、それが無ければ怖くない。統は正しい事をしたとしか思えない。
 読み取りにくいが、静音の反応がそれを裏付けていた。彼女は安心した様な気配を発していたから。
 隣から、軽い寝息が聞こえた。統が眠っていた。
 天井を見上げ、渦巻きの数をとうとう突き止めた。狭い部屋なのに三十五個も有った。数え間違えていなければ。

 一瞬だけ意識を失って起きた感覚の翌朝土曜日。
 統は先に起き出して着替えていた。隣の部屋からは布団をバサバサと動かす音がしている。静音も目を覚ましている。
 「おはよう」
 統の挨拶は学校で会った時と同じ調子だった。
 静音が、そっと障子を細く開けた。
 「おはよう」
 やはり日常の調子で言う。
 二人を順番に見ながら、おはようと返した。
 「朝ご飯を食べて来るよ」
 伸びをしながら、どちらにともなく告げた。 
 「目的地は電車で約四十五分。祖母が住んでいる。北條縁の辺りなんだ。俺達は泊まりがけで行く。お前はどうする。泊まれる?」
 少し考える。友達の家に泊まるのは初めてじゃない。特に団地内では珍しくない。統に関して、母は〝大学の先生の息子でお坊ちゃん〟だと思っている。事実、その通りなんだが。
 「母親に話して来るよ。たぶん、大丈夫」
 親の家のドアを開ける。玄関に父の靴は無い。土木施工の現場監督をしている父親は残業が多い上、早朝出勤が多い。冬の悪天候のせいで工期が迫っているのだろう。
 朝ご飯は食パンとマーガリン、昨日残した鯖に漬物、牛乳といっためちゃくちゃなメニューだ。魚以外は平らげた。パンを三枚食べた。
 「あんた、パンだけ食べ過ぎだ」
 挨拶も無く母が言う。
 「ごめん。今日、統の家に泊まって勉強して来るよ。月曜に数学のテストがあるんだ。教えて貰わなきゃ」
 我ながら上手い嘘だと思った。
 「ああ、あのお坊ちゃんか。母さん、統君の家に電話して挨拶しとこうか」
 「統のお父さん、土曜日も研究室だよ」
 「そっか、大学の先生ってのは忙しいもんなんだな」
 うん、とパンに齧り付きながら頷いた。これは嘘ではない。だいたい統の家に電話して在宅だとしても、彼の父は基本的に本や仕事に夢中で電話を無視するのだ。家電は碌な内容の電話が来ない。セールスか詐欺かというところだ。
 朝食を終えて親の家から出た。自分の家の洗面所で顔を洗い、髪を梳かして歯を磨く。寝たはずなのに隈が出来ていた。浴室は見ないように気を付けた。
 統と静音も朝食を食べたようだ。昨夜は二人共、食事をしていなかった。
 洗面所に静音が入って来た。携帯用の歯ブラシセットと洗顔料を持っている。よく見ると洗顔料はメンズだった。歯ブラシも青。まさかとは思ったが、その後に統が同じ歯ブラシで歯を磨いていた。静音は生活用品を持っていないのだと、今更思い至った。櫛も兼用。
 クラスメイトの女子は……中学の時からだが、だいたい学校でも化粧をしている。休み時間にはジュースを飲んだりグミを食べたりしながらiPhoneをいじっている。
 静音に惹かれた理由が分かった。彼女は何も持っていない、何も繕っていない。それで圧倒的に美しい。透明で純粋。素朴な存在。混ざりものでも、紛いものでもない。雑多な空気を持っていない。彼女はいつも真剣だ。遊びで触れればこちらの皮膚が切られる様な緊張感を強いて来る。それが好きなのだ。真剣に向き合ってくれるから。
 統はadidasのジャージ上下に身を包んでいた。静音はその色違いを着ていて、今日の為に統が用意したのだろうと直ぐに思った。静音が着ている物は新品に見えた。
 「学校指定じゃないジャージの様な服を持っているよな?」
 統が尋ねて来た。
 「あるよ」
 「それから部活に使うバッグを出して欲しい。リュックでも良い」
 統はやはりadidasのナイロンのスポーツバッグを持って来ている。
 「合宿用のバッグが有る。それからリュックも」
 統は頷いた。
 「どっちも使いたい。死体を入れるけど大丈夫か?」
 精神衛生的に大丈夫か、という意味だ。
 「もう何が起きても大丈夫だよ」
 そう答えた。
 覗いてみると、統のadidasのスポーツバッグの中には、着替えともう一回り小さいスポーツバッグが入っていた。
 浴室にスポーツバッグを持って行った統について行くと、そこには大きなフリーザー袋に切断された死体が詰められていた。
 血溜まりがバッグ内に出来ているが、漏れてはいない。
 「業務用の魚や肉を保管しておくフリーザーバッグだ。液漏れはしない。胴体はそのままだから中身は出ていない」
 端的に言いながら、統はスポーツバッグに手際良くそれらを詰めて行く。
 昨日の動いている状態のあの男は普通体型に見えたが、切断されて血が大分流れるとかなりコンパクトだった。
 「そんなのどこに売ってるの?」
 普通のスーパーには無さそうだった。
 「Amazonとか楽天とか。どこにでも売っているよ」
 つまらなさそうに統は言う。
 統のスポーツバッグニつと、貸したリュック一つに死体は詰め終えられた。もう一つのスポーツバッグに全員の着替えや食料、洗面道具。それぞれの携帯や財布等が入れられた。静音は携帯・財布自体を持っていない。
 最後に、中年男の衣服と携帯、凶器である金槌やノコギリ等が入った透明な袋。携帯は金槌で潰してある。衣服は鋏で細かく切られていた。その袋はリュックに押し込められた。
 「リュックは静音に持って貰う」
 統がそう話した後に静音が無言でリュックを背負う。
 コートを羽織り三人でそれぞれ荷物を手にすると、まるで部活動の為に遠出する出立ちだった。これなら誰も疑わない。
 荷は持ってみると、ずっしりとした重みが有った。かなり重い。胴体が入っているのかも知れないと思うと気味が悪い。
 外は曇り空だった。まだ午前九時。風が冷たく、肌寒い。寒い季節で良かった。夏なら汗だくになっただろう。そして暑さで頭に蜃気楼が出て、判断力も鈍ったに違いない。だが、その方が殆ど現実味が無かったかも知れない。統は暑さ程度で冷静さを欠く訳も無い。
 最初にバスに乗って最寄り駅まで出た。そこから電車で大きな駅に向かう。電車を乗り継ぎ、四十分程の旅。率先して統が交通費を出してくれた。
 電車の窓外を稲刈り後の茶色い殺風景な田んぼが流れて行く。たまに白鳥の集団が田んぼの中で寛いでいる。シベリアから飛来して来るのだ。
 雨粒が時たま窓に飛んで来る。田舎に行く程、気温が低い。雨粒は霰に変わった。灰色の重い曇天だ。かと思えば、陽が控えめに射す瞬間も有る。山に近い場所の天候は変わりやすい。
 四人掛けのボックス席、右斜め向かいの静音はまた眠っていた。寝顔は驚く程に白く、死んでいる様にも見える。
 向かいは統だ。彼もずっと窓の向こうを見ている。
 「あのさ、ずっと聞きたかったんだけど」
 話しかけると、統はこちらを真っ直ぐに見た。
 「何?」
 「静音は双子の妹?または姉なわけじゃん。どうしてエッチが出来る?何でそうなったわけ」
 「正確には妹。帝王切開だからどっちがどっちでも変わらないけど」
 統の話によると、先に取り上げられた方が上の子という認識になるらしい。
 はぐらかされた気がして黙っていた。すると統は「異性だから。それに離れていたから兄妹って感じがしないんだ。二卵性だし」
 と答えてくれた。
 「そっか」
 納得は出来なかったが、そう言っておく。
 目的地の最寄り駅が近づいて来ると、統は静音を揺り起こした。
 なかなか静音は目を覚まさずにいた。統は彼女の頬を両手で包む様にして撫でていた。その仕草は、どこかエロティックだった。彼らは単なる双子の兄妹ではないのを改めて感じた。
 駅に降り立った人は他には誰も居なかった。寂れた無人駅。周囲には何も無い。落ち葉の降り積もった階段。朽ちて今にも崩れそうな木製のベンチ。古い灰皿。空き缶や空のペットボトル、なぜか片方のみの靴下や靴、ビニール袋や壊れた傘等が散乱している。
 切符入れは錆びた缶だった。規定の乗車料金を支払わなかった場合、どうするのだろう。電車内で切符の見回りにも来なかった。世の中は適当だなと思う。
 「ここから少し歩くよ」
 先頭の統が後ろを振り返って言った。
 民家がまばらに続いている一本道。人が全く通らない事が不思議で、不気味だった。
 林や竹藪が多い。付近にコンビニも見えない。営業しているのか分からない自転車屋、電気屋、煙草屋は通った。看板が外れていたり看板の文字が消えていたりする。
 小さな木造の学校を通り、その先にやはり小さな酒屋が有った。そこは営業していた。
 人に会わないまま到着したのは、古い一軒家だ。お化け屋敷と言われても信じただろう。壁は元はベージュだった様だが、どす黒く汚れていた。屋根の瓦が所々剥がれている。
 「ここが母方の祖母の家。祖母は軽い認知症だから時々奇妙な事を言ったりするけれど、害は無い」
 統が引き戸を力を入れて開いた。戸は木の枝をつっかえ棒にしてあり、それが鍵代わりなのだ。
 「鍵ないの?おばあちゃんだけしか住んでないの?危なくない?」
 驚いて尋ねた。
 「鍵は壊れている。開けるにはコツがあるんだ。玄関の戸自体が壊れていて本来は直ぐには開かない。枝が鍵になっている。ここには今、祖母しか居ない。祖父の墓は敷地内にある。この辺りの住人はみんな知り合いだから。防犯上の問題は無いらしいな」
 へえ……、と返事しながら庭を見た。庭は広そうだ。竹藪も畑も大きな木も立派な蔵も有る。家がボロボロなのに不釣り合いだった。
 統は自分の家の様に玄関に上がった。一応、靴箱からスリッパを出してくれたがスリッパも古い。玄関は土間で、暗い色合いの砂壁が直ぐに迫って来て目を塞いだ。
 慣れた手順で、統は弱い明かりを点けた。昔ながらの傘を被った電灯だった。廊下には埃が見た事の無い程に白く積もっていた。廊下脇に白髪の塊が落ちていたりする。何年も掃除をしないと、こうなるのか。
 短い廊下の脇に茶の間が有った。オレンジ色の炬燵布団、焦茶色のテーブル。炬燵に座って、小さく背を縮めたお婆さんが居眠りをしていた。
 「おばあちゃん!統と静音が来たよ‼︎」
 突然に統が声を張ったのでびっくりした。お婆さんが半分眠りから覚めた表情で目を開いた。
 「……おお?統が居った」
 「友達を連れて泊まりに来たよ!」
 統はわざと子供らしい話し方をしている。
 「はいはい、ありがとねえ」
 お婆さんはまた目を閉じた。
 「静音はここに居て」
 急にいつもの統の声量と話し方に戻る。静音が頷き、リュックを彼に渡した。
 統は着替えが入ったバッグだけ、居間に置いた。
 「祖母は耳が遠い。ああして殆ど寝ている。ヘルパーや民生委員が平日に来る。その内亡くなる」
 別の部屋に向かいながら統は淡々と話す。冷たい言い方ではないが、お婆さんに興味が無い様だ。
 「この家は祖母が亡くなれば母の所有になる。母には管理なんか出来ない。静音の養育すら出来ない人間だ。いずれ母も死ぬ。そうしたら静音の所有になる」
 狭く暗い台所に来た。磨りガラスの窓が有り、かろうじて採光されている。その奥に木戸が有った。統は話しながらスポーツバッグを床に下ろした。
 「この奥に使っていない汲み取り式トイレが有る。そこへ死体を消石灰と共に捨てる」
 統が木戸の奥を見せてくれた。
 昔の汲み取り式のトイレを初めて見た。蓋を取ると、深く真っ黒な大きな穴が口を開けていた。
 「こいつに似合う墓だと思わないか?」
 死体の一部を軽く蹴って、統は言った。彼は無表情だ。怒りや恐怖、不安等の感情を持っていない目だった。笑ってもいない。心臓が底冷えする様な不気味な目だ。悪人の死体に似合う場所だと、ただの彼なりの感覚を告げているだけなのに。
 ほぼ廃屋の様なこの場所で、仄暗い光に照らされた統の横顔は鬼でもなければ化け物でもない。普段の端正な親友の顔なのだが彼が男を殺した時と同じで、気が遠くなる程の異の世界の存在に見えて来た。率直に言うと、恐ろしい存在に思えて来た。仮に、もし自分が彼を激しく裏切る事が有ればバラバラに切断されてここに、この男と埋まる事になるかも知れない。例えば警察に自首しようとするとか……例えば静音と寝ている事が知られてしまったら。
 「蔵から消石灰を運んで来る。祖父が畑を作る時に使っていたんだ」
 統は冷静な調子で言う。
 「あ、手伝うよ」
 この場に居るのが怖かったから申し出た。
 「何だ、暗い場所が嫌いなのか。この家、汚くて光も入らないからな。でも蔵はもっと暗くて汚い」
 「どっちにしろ一緒に行くよ。石灰って重そうだし」
 「分かった、一緒に行こう。ありがとう」
 統は少し笑った。
 一旦、死体が入った複数のバッグを置き玄関でなく台所の裏勝手口からスリッパのまま庭に出た。
 ぐるりと家を巡る様にして蔵へ。名前の分からない樹木が大きく腕を広げて茂っている。風に騒めく数百の葉。この辺りの木の葉は落ちないのだろうか。
 蔵は白く、外壁がひび割れている。漆喰で出来ている様だ。中に入り、内側から柱を見ると
歪んでいる風に見える。カビ臭い、そして土臭い。内部には雑多な物が置かれている。旧式の石油ストーブ、土の入った袋、スコップ、斧、レンガ、ブロック、瓦、灯油缶、リヤカー、大量の新聞紙や衣服等々。
 「本当はここに穴を掘って消石灰と共に埋める方法も考えたんだ」
 統が重々しく言った。
 「うん……ここなら人に知られそうにないね。でもトイレの方が良いと思う」
 最初から統に聞いた計画内で、使われていない和式の汲み取り式便器の話は挙げられていた。実際に見るとあちらの方が適していると思った。
 「あの男の墓としてか?」
 統は尋ね、微笑んだ。
 「穴を掘るのが手間だからね」
 そう答えると、統の笑みが深まった。
 「そうだろう、何でそこまでして弔ってやらなければならないんだと思ったんだよ。トイレに落とせば楽だ」
 統はコートのポケットから軍手を二組、取り出した。軍手の一方をこちらに差し出し、次に石灰の袋を手渡して来た。慌てて軍手を填め、石灰を受け取る。統は更に庭土と書かれた袋も同時に運んでいた。
 そう重くはなかったが家の周りを迂回し、台所まで運んで行くと腕に疲れを覚えた。
 台所に庭を歩いたスリッパで入る事を躊躇ったが、庭には草が生えていて汚い感じはしなかった。蔵は暗くて下側がよく見えなかった。台所の方が埃に塗れていて汚いと思える。
 統は軍手を外し、コートのポケットから出した医療用のサージカルグローブを着けた。続いてサングラスを着け、マスクを二枚重ねて着けた。
 「石灰が目に入らない様に離れていろ。それから吸い込まない様に」
 そう言った統はスポーツバッグから、まず複数の凶器の入った袋と破壊した携帯、切った衣服の入った袋を便器に押し込む。そして次々と切断した死体を便器いっぱいに広がる穴へと落として行った。石灰の袋の口を手で破り、かなりの量の石灰を投入している。死体の後に石灰、石灰の後に死体。まるで死体が具で石灰がパンのサンドイッチだ。
 その穴は何でも飲み込むブラックホールに酷似していた。旧式の汲み取り式トイレは幅も長さも有り、死体の首も三分の一程度に切られた尻もそのまま入っていった。途中、陰茎らしき物がスライス状になっているのを見た様な気がし、喉の奥から自然と胃液が迫り上がって来た。……まさか、あの切られた部位を見て、あの時、静音は笑っていたのでは?……カビだらけの流し台で吐いた。それに気付いても統は何も言わなかった。
 彼はこの計画を持ち掛けて来た時に言っていた。「行方不明者なんて毎年腐る程の人数に上る。あの男は元々放浪癖が有り消えても誰かの疑問にはならない。死体に気付かれなければ警察は確実に捜査しない」と。このトイレは使われていない為、汲み取り業者もノータッチなのだそうだ。
 最後に統は石灰を丸々一袋、加えて庭土で蓋をする様に流し込んだ。石灰と庭土の袋も小さく畳み、軍手と共に最後に穴へと落とした。そして和式便器の蓋をした。
 「そこにある石を取って。漬け物用の石だ」
 台所には大きな石が二つ転がっていた。一つずつ手渡す。
 統は石を二つ並べて便器の蓋に載せた。
 「この家には鼠が出るから。中に入らない様に」
 言いながら、スポーツバッグの中から大容量の消臭剤を取り出した。『業務用・強力』とある。重かっただろうに、統はそんな気配を道中見せなかった。消臭剤を壁際に置き手を洗って、全ては完了した。
 
 居間に戻ると、静音とお婆さんが炬燵に入って眠っていた。
 よく観察してみると居間には火の気が無い。ふと寒さを覚い出した。体は冷え切っていた。「失礼します」と一応言い、炬燵に足を入れてみた。炬燵布団は綺麗ではなかったが、この家全体が汚い。一晩泊まるのだ。あの作業の後で、もうどうでも良かった。
 炬燵の中は意外にも深みが有り、掘り炬燵だと分かった。
 「今は電気だけど昔は豆炭だったんだ。この中に顔を突っ込んでいたら一酸化炭素で死ねただろうな」
 炬燵に入りながら、統が教えてくれた。
 統も寒かっただろう、そして石灰と土を運んで疲れている筈だった。昨日は一人で解体をして疲労が抜けていないかも知れない。それでも顔に出さない。愚痴も言わない。弱気には無論ならない。
 「統、今夜のご飯はどうする?持って来た物を食べる?お婆さんは何を食べているんだろう。それから、どこで寝れば良いかな」
 パンと煎餅に団子、ポカリは持って来ていた。昼食も食べていない。それなのに食欲は湧かない。
 「祖母は冷蔵庫の中の物を適当に食べている様だが、腐っている物も多い。後で食べられる物が有るか見て来る。二階に古い布団が何組か有る。そこで寝よう。祖母はトイレはまだ自力で行けるが、もう二階には上れないから気兼ねしなくて良い。シャワーは有るから入浴は出来る」
 シャワーと聞いて、ほっとした。いくら冬でも二日も風呂に入れないのは辛い。
 お婆さんはこんなに辺鄙な所で、たった独りで寂しくないのだろうか。置き物みたいにひっそりと目を閉じている姿は、まるで仙人に見えた。寂しいという感情が抜け落ちていた。お婆さんにとっては眠っている間の夢が現実なのかも知れない。その夢の中では、まだ新しく綺麗だったこの家でお爺さんと、お互い若い頃の姿で楽しく暮らしているのかも知れない。それなら、なるべく目覚めたくないだろうなと思った。
 人もそうだが、家にも歴史が有る。この家にも笑い声が響いていたのだろう。赤ん坊の泣き声が有った時期、小さな子供が走っていた時期が有ったのだろうか。統と静音が幼児だった頃、ここに来たのだろうか。二人の母親は、この家で育ったのだろうか。
 横になっていた静音が身を起こした。
 「全部済んだ」
 統が声を掛けると静音は先ず統を、次にこちらを順番に見た。彼女は笑った訳ではなかったが、無表情の中に光が差したかに見えた。それが気のせいなのかは分からない。
 続いてお婆さんも目を開けた。
 「おばあちゃん、お茶を飲む?」
 積極的に静音がお婆さんに話し掛けた。珍しい事だ。しかも少し大きな声で。お婆さんの耳が遠いからだろうが、静音の声をしっかりと耳にする事はこれまで無かった。彼女は腹筋を使わない囁き声でいつも話すから。
 お婆さんは嬉しそうに瞼を完全に開いて頷いた。
 静音は台所に行った。彼女は気配が少なく、いつ立っていつ部屋を出たのか意識して見張っていないと気付く事が出来ない。なぜあんなふうに気配を消せるのか考えても分からなかった。
 「統、どうして静音に気配が無いか分かる?」
 彼なら分からない事は無いだろうと尋ねてみた。特に静音の事なら知っているだろう。
 「存在感を出すと傷付けられて育ったからだ」
 簡潔に統は答えた。
 「おばあちゃん、今日は友達と泊まって行くからね」
 大声で統が言うと、お婆さんは唇を開けて笑みを作った。歯が無い。
 歯が無いと歯を磨かなくて良いんだろうなと考えていると、静音が密やかに現れた。急須と湯呑みをお盆に載せて持って来た。
 お茶を淹れてくれたが、静音の分が無かった。自らを数に入れない人が、この世には居る。
 黙って見ていると統がお茶を彼女と一緒に飲んでいる。彼らは二人で一人の感覚なのだ。
 せっかく団子を持って来たのだからと、バッグから出してテーブルに載せた。
 「お婆さん、どうぞ。お世話になります」
 声を張り上げて話し掛けてみた。
 「うんうん、ありがとね」
 お婆さんはこっちを見てくれた。目が白く濁っている。
 団子を喉に詰まらせないか心配だったが、お婆さんは少しずつ口に入れて歯茎で噛んでいる様子だった。
 お茶を飲み終えた統が台所に行き、缶詰めを幾つかと缶切りを持って現れた。缶詰めの中には乾パンが混ざっていた。小学校の避難訓練だか、社会科見学だかで貰って食べた事が一度だけ有ったのを思い出した。
 鰯の缶詰めやら焼き鳥の缶詰めやら、食べたくない物ばかりだった。ウズラの卵の缶詰めと乾パンだけ貰って食べた。
 静音がお茶を淹れ直してくれた。
 「先にシャワーを浴びる?」
 はっきりとした口調で彼女から話し掛けて来たので驚いた。今までの静音の声ではない気がした。驚いた余り、頷いた。
 「お風呂場の掃除をして来る」
 静音はそう言ったが、
 「気にしないから良いよ」
 と答えて立ち上がった。バッグから替えの下着と洗顔料を出した。
 居間を出て狭い廊下を右に曲がると、古い洗濯機が置いてあった。
 その上に何枚か薄いタオルが置かれている。畳まれているのを見ると洗濯済みの様だが、変な臭いがする。一番下に村の老人会の印刷がされている、袋入りのタオルが積み重ねられていた。それを一枚借りる事にした。
 洗濯機の奥が、小石を敷き詰めた様なタイル貼りの風呂場だった。
 浴槽は真っ黒で、虫の死骸が多数転がっていた。シャワーヘッドは旧式で銀色をしている。手に持ってみると重い。
 蛇口を捻ってしばらく待つと、ようやくお湯が出た。床だけ軽く流す間に、急いでジャージを脱いだ。
 白髪が巻き付いた石鹸が有る。そんなに潔癖症ではないが嫌悪感で気分が痺れる。シャンプーらしき物は有ったが品質が悪くなっていそうで怖くて使えず、洗顔料で髪も体も全部洗った。
 一分で出て、袋を破って白い手拭いの様なタオルで全身を拭く。下着を身に付け、またジャージを着た。
 あんな風呂場に女子である静音は入れるのだろうか。
 心配したが、入れ替わりで静音が風呂場に消えて行った。
 その後に統がシャワーに立つ。戻って来た静音は、いつも通り無表情だったがシャンプーの良い匂いがした。あのシャンプーらしき物は、やはりシャンプーだったらしい。
 「先に二階に上がる?」
 静音がくっきりとした口調で話し掛けて来た。また驚いて頷いてしまう。
 ここが祖母宅だから、気楽な心地になってこんなに話し掛けて来るのだろうか。そうではない気がした。あの男がこの世から消えて死体も統が隠したから、本当に安心したのだと思った。
 「トイレは、ここ」
 居間を出て左に曲がると、ドアが二つ有った。一応、男性用女性用と分かれていた。珍しい造りの家だ。どうしてあんな、台所の隣の位置に使われていないトイレがもう一つ有ったのだろう。
 二階に上がる前に、静音と二人でトイレの手前に有る洗面台で歯を磨いた。風呂場からは統が使っているシャワーの音がしている。
 「お婆さんはお風呂に入らないの?」
 うがいをした後に静音に尋ねた。
 「おばあちゃんはデイサービスでお風呂に入るの」
 静音が髪を押さえて、歯磨き粉の混ざった白い水を吐いてから答えた。その仕草は妙に艶めかしい。彼女は同い年に見えない表情や手の動かし方をする。
 トイレの奥に急勾配の階段が続いていた。
 「先に上がってて。トイレに寄るよ」
 静音にそう告げると、彼女は数段を上って振り返った。
 「早く来てね」
 何であんな事を言うのだろうと思いながら、電球の切れている暗いトイレに入った。ここも不衛生なのだろうが、暗くて殆ど見えなかった。ただ排水溝らしき物が有り、便器が無かった。つまり、そのまま垂れ流すスタイルなのだった。
 女性用のトイレのドアを思い切って開けてみる。和式トイレで、一応水洗トイレだった。こちらは電球が灯った。やっぱり相当な汚れ具合だった。静音はこのトイレで気にならないのか、問題無く使えるのだろうか。
 どうすべきか迷ったが、男性用トイレで何とか用を足した。
 階段を駆け上がると、静音が押し入れから布団を出していた。布団は風呂敷に包まれてあった。これは汚くはなさそうだ。
 手伝おうと布団を持ち上げた。すると、冷たい静音の白い指が布団を持った手に触れて来た。
 「ありがとう」
 そう言った静音の冷たい唇が、唇に触れた。
 唇は直ぐに離れ、静音は何事も無かった様に布団を敷いている。
 彼女は何で今、キスしたんだろう。お礼のつもりなのだろうか。
 階下から生真面目な足音が聞こえて来る。
 「もう布団を敷いていたのか、自分でやるから良い」
 統は静音の手から掛け布団を奪い、大きく広げた。
 少し埃っぽい。
 「窓を開ける?」
 静音がこちらを見て言った。もしかすると、彼女は統と二人で居る時にはこうやって自然に話すのかもしれない。
 統が頷くと、静音は窓を開けた。窓にはネジに似た鍵が付いていて、それを回してから開けるのだ。初めて見る窓だった。
 凍て付く外気が入って来る。雪の匂いがする。今はまだ降っていなかったが今夜、本格的に降るのか。
 それにしても、この家にはTVも無い。他の部屋には有るのだろうか。居間の奥には座敷が有る様だった。障子が閉まっていて見えなかったが。
 敷布団も掛け布団も、昔ながらの布団で異様に重たい。ゴワゴワした毛布が有った。無いよりはマシだ。
 枕にはビーズか何かが入っている。ジャラジャラと音がする。手触りを確認していると、
「小豆が入っている」と統が教えてくれた。
 室内を豆電球だけにすると、あっという間に静音の微かな寝息が聞こえ始めた。彼女は相変わらず殆ど食べず、眠ってばかりいる。食べないから体力が無いのかと思う。そんな事を考えていたら、意識が途切れがちになるのを感じた。とても疲れていた。

 赤い赤い夕日に照らされたこの家の台所。鼠が足元を通る。
 静音が何かを包丁で斬っている。まな板の上には、あの男の性器が有る。血がシンクの中に大量に流れていく。彼女の唇は微笑みの形をしている。
 背後に誰かの気配を覚える。統が現れる。その手には金槌が有る。彼の目は酷く冷たく、何の感情も宿していない。よく見ると、その目には眼球が無かった。
 金槌が閃く。金槌はこちらに向けられ物凄いスピードで振り下ろされた。骨が歪む激しい音、鈍痛。
 
 呼吸が出来なくて目が覚めた。どうした訳か舌を噛んでいた。
 「どうしたんだ」
 統が背中に手を添えようとしている。夢の余韻で、尚更に息がおかしくなる。怖い。統が怖いのか息の継ぎ方を忘れたからか、どんどん指先が痺れていく。
 統の掌が鼻と口を押さえ込んだ。
 「大丈夫、ただの過呼吸だ。ゆっくり息を吸って。浅く吸うな、深く吸って。……よし、吐いて良い。……また、深く吸って。大丈夫。何も怖くない。直ぐに治る」
 統の声は一定している。指示に合わせて呼吸を繰り返していると、痺れが引いていった。
 「お前は何も心配しなくて良い。お前は何も手伝わなかった。お前は何も知らない。そう思って居れば、何も問題が無い」
 統の手が、今度は両肩を支えてくれる。
 「お前は何も心配しなくて良い。分かった?」
 優しいが毅然とした声だった。頷くと、統は更に言う。
 「お前は何も手伝っていない。復唱して欲しい」
 復唱……?統は無かった事にしたいのか、それとも親友に心労を掛けたくないと思っているのか。
 「何も、手伝っていない」
 機械的に呟いた。これで手伝っていない事になるのなら、そうしたかった。
 「お前は何も知らない。そうだな」
 統はこちらの目を覗き込んだ。澄んだ、誠実な目だ。これを誠実な目じゃないと思う人間がこの世に居るだろうか。だが、誠実とは何なのだろう。
 統は静音を誠実に守りたくて殺人と死体の遺棄をした。どこまでも誠実に。
 「何も知らないと言い切れば、もう過呼吸にはならない。本当に何も知らない事になる。お前は無関係だ。何も知らない。そうだよな?」
 それは違う気がした。言葉にしたからと言って、無関係にはならない。それでも統の真摯な口調と視線を裏切る訳にはいかない。
 「そうだ、何も知らない」
 言い切ってしまうと、少し楽になった。統が背中を撫でてくれる。人の手は温かい。ずっとそうされていると、絶対的な安心感が徐々に滲み出て来る。
 「俺が守るから安全だ。何も心配する事は無い」
 統は繰り返した。
 
 翌日の早朝、静音が起き出して統の布団に潜り込んでいるのを見た。室内は藍色だった。実際は未だ夜だったのかも知れない。眠くてそれ以上は関知しなかった。深い眠りに引き摺り込まれる直前に、彼女の笑い声を聞いた気がした。
 次に起きた時、部屋が蒼い光で満ちていた。携帯で時間を確認すると六時二十分過ぎだ。思い返してみると、この家に来てからも道中も携帯を見ていなかった。携帯は圏外だった。
 「始発はもう出ている。早く帰ろう」
 統が上半身を起こし、体を捻って携帯の時間を覗いていた。
 「静音を起こして」
 早々に布団を畳みながら統は言う。何で急いでいるのだろう。
 「この近辺は農家が多い。朝に活動している人が多いんだ。あまり人目について記憶を残したくない」
 こちらの疑問を見透かした様に統は話す。
 「大丈夫だと思うよ。そもそも警察が捜査しない前提なんだろ?」
 そう言うと、統は頷いた。
 「もちろん。だが念には念をだ」
 布団を押し入れに片付けてから、慌ただしくパンを口に押し込んだ。静音は食べていない。
 「一口でも食べた方がいいよ」
 声を掛けると、彼女は素直に一口だけ食べて直ぐにコートを着た。 
 階段を降りる。
 お婆さんはどうしているのだろう。居間を見てみると、炬燵にお婆さんは居なかった。
 「誰もいないよ」
 まだ階段を降りている途中の統に声を掛ける。
 「奥座敷で寝ていると思う」
 そう言いながら階段を降り切り、統は居間の向こうの部屋に入って行く。掛け軸と壺が飾ってあるのが見えた。ちゃんと布団が敷いてある。
 静音はトイレに入っていた。あのトイレはもう嫌だった。駅か電車内のトイレを使う事にしようと考えた。
 「おばあちゃんに挨拶をして来た。殆ど寝ていて意識が不明瞭だったが」
 統は靴を履き、スリッパを片付ける。静音もトイレから出て来た。手を洗い、やはりスリッパを片付けた。それに倣って靴箱にスリッパを入れ、靴を履いた。
 この家に来る事は、二度と無いんだなと感じながら外に出る。問答無用で早く帰りたかった。
 駅までの道のりで、夫婦だと思われる二人のお年寄りと擦れ違った。散歩中なのかも知れない。統は堂々と「おはようございます」と挨拶をした。とりあえずは統の真似をしておく。静音は会釈だけしていた。
 それにしても、うらぶれて寂しい地域だ。こんな所で暮らしていたら心が病んでしまいそうだ。
 寝不足で頭の中に霧が出ている。視界には雪が時々、不規則に舞っている。風の吹く方向が一致していない。前を歩く統の踵をしっかりと見て追っていた。静音は後ろを歩いているが、足音が聞こえない。雪が積もっている訳でもないのに、彼女は足音を幽霊みたいに消せるらしかった。
 駅のトイレに入ったが、ここも旧式のぼっとん便所だった。この穴の奥にも死体が入っていそうな気がして気味が悪い。
 電車が来て暖かい車内に入るとほっとした。日曜日の天候の優れない早朝。空席ばかりだ。
 座席に座り、車輪が刻む一定のリズムに身を預けていると直ぐに夢の中との区別がつかなくなった。

 自宅に戻ったのは八時過ぎだった。バスの中でも夢うつつだった。バスを待つ間も、統と話をしなかった。電車の中で彼が起きていたかは分からない。降りるべき駅できちんと起こしてくれた。電車代もバス代も当然の様に出してくれた。別れ際は「明日また学校で。ありがとう」と普通の調子で言われた。
 本当に勉強の為に統の家に泊まりに行き、帰って来ただけの様な気分でもある。
 今更だがLINEで「交通費、出してくれてありがとう」と送った。直後に既読が付いたが返信は無い。この週末に遠出した事に関して、文字で記録を残してはいけなかったかも知れない。そう思って書いた文を削除した。統もメッセージを削除していそうだ。
 親の家のドアは閉まっている。昔風に牛乳配達の受け取り口が有り、いつもその奥に鍵が隠されている。日曜だが父は早朝から仕事、母は近所の弁当屋のパートに行っている。
 味噌汁の残りが有った。冷蔵庫には昨夜の夕飯らしきエビチリの残り。味噌汁だけ温め、炊飯器の中から少し固くなったご飯をよそって漬け物と一緒に食べた。温かいご飯が食べられる事に感謝した。母が作った濃いめの味噌汁が体全体に染み渡っていく。豆腐とワカメがシンプルに美味しく感じた。
 自分の部屋で布団を敷き、横になった。疲れが取れない。目を閉じると浴室や廊下、玄関に血が広がるイメージが頭から離れない。
 少し眠り、起きて携帯を見ると十四時過ぎだった。
 明日は数学の小テストが有る。勉強をしなければならない。
 塾に行く事もなく無理をして入った高校の理数科。統は軽々と高校でも一位をキープしていた。普通科にしておけば良かった。
 静音は普通科に居る。彼女の成績は下から数えた方が早い様だが、大して勉強せずに同じ高校に入れたのだから見上げたものだった。受験期に統が教えたのだと思う。
 二時間程勉強し、窓を見た。雪が舞っている。
 階段を誰かが上って来る音がする。この時間帯に母は帰宅する。玄関のドアを開けて待っていると、階段の踊り場から顔を出したのは母ではなく制服を着た静音だった。普段は彼女の気配を感じないのに何で気付けたのだろう。
 「どうしたの、何か有った?」
 彼女は携帯を持っていない。今までも連絡をしてから家に来るのではなく、統が塾に行ったり科学部の活動をする日に学校から一緒にここに来るのが常だった。
 「家に着替えと教科書を取りに行っただけ。それで寄ったの。これから統の家で完全に暮らす事になると思うから」
 つまり今後は会えなくなるという事だと悟った。
 「その方が良いよ。お母さんは旅館からあんまり帰って来ないんでしょ?」
 静音は頷いた。
 「それから統に悪いから、もうここに来ない方が良いと思うんだけど」
 そう告げると、
 「なぜ」
 意味が分からないというふうに静音はこちらを直視した。
 「統と長く一緒に居るんだったら、浮気してるってバレるよ」
 「私は浮気なんてしていない」
 彼女はあくまでも真面目な顔をしている。
 「静音は統が好きなんだよね?」
 「好き」
 「じゃあ俺とキスしたりしちゃ駄目なんだよ」
 「なぜ」
 静音の表情を見ていると、恋愛感情や恋愛表現といったものを理解していないのかも知れないと思い始めた。ということは、おそらく浮気の概念も無い。
 「統が悲しむから。それに怒ると思うけど。統が今度は俺を殺すかもよ」
 「なぜ?」
 徹底して、彼女は困惑している。
 「ともかく統の目が今までより届きやすくなるから、もう止めよう」
 そう言った途端、静音は無表情のまま右手の親指を噛んだ。口に含んだ時点では赤ん坊みたいだと思ったが、そのまま彼女の口から血が溢れた。凄い力で指を噛んでいる。血はそのまま彼女の右手の甲に流れた。
 血を見た瞬間、後頭部が冷えた感じがした。ぐるりと視界が歪んだ。
 「そんな事しちゃ駄目だよ、指から、歯を外して」
 静音の居る場所まで降りた。右手で彼女の口を、左手で彼女の右手を抑えた。
 あっさりと噛む行動を止めさせる事は出来た。とりあえず部屋に連れて行った。母が帰って来てしまう。
 静音を部屋の中央に座らせ、戻って踊り場や階段を確認した。血は落ちていない。
 壁に吊るしてある制服のポケットに入れっぱなしだったハンカチを濡らし、静音の口の周りと右手を拭いた。右手の親指には深い歯形の傷。こんなに限度無く自分の手を噛む事を、理性の有る人間がするのか。
 静音は黙ったままで放心状態だった。「絆創膏と包帯を持って来る」と言っても聞こえていない様だった。
 向かいの親の家に入り、棚の中から救急箱を取り出した時に母が帰って来た。
 「あんた帰ってたの」
 母は目一杯食料を突っ込んであるショッピングバッグを玄関に下ろした。
 「おかえり。ちょっと友達が来てる」
 そう言って絆創膏だけ持って行く事にした。包帯を持ち出したら、怪我をしたのかと尋ねられそうな雰囲気だった。
 特に母は何も尋ねなかった。何となく、女子が時々来ている事に気づいているが息子のプライバシーには関与しないという人なのだ。兄の時もそうだった。
 自分の部屋に戻ると、静音はさっきの状態で微動だにしていない。ティッシュで血をぬぐい、絆創膏を三枚重ねて巻いた。
 手当てしながら考えていた。静音は好意を二重にしていても、つまり二人の異性に対して恋愛しても問題無いと思っている様だ。もしかしたら彼女の母親がそうした人なのかも知れない。彼女には倫理観が欠けている様だ。
 統の話では、静音が小学生の頃から性的虐待が日常的に有ったというのだから性行為も理解しないまましてしまっているのかも知れない。暴力も殺人に関しても普通の事だと認識している様に見える。残虐な事態に対して、彼女は草や土を見る様な眼差しだった。
 「統が待ってるから、早く戻った方がいいよ」
 優しく声を掛けた。突き放す言動をすると、また静音は自傷をするかも知れない。距離を置くなら少しずつやらないとならない。
 「ここに寄るって言って来たもの」
 巻いた絆創膏を押しながら静音は言った。
 「それで統は何て言ってた?」
 「わかった、って」
 この感じだと、統は静音の浮気に気付いている。というか元から知っていて今回の事に巻き込んだのだ。
 頭が痛くなって来た。何だかどうでも良くなった、全ての事が。
 顔を伏せていた静音の髪を撫でた。それは掻き分けても掻き分けても直ぐに彼女の頬に落ちて行く。さらさらとしていて触れていると不明確な事柄が何もかも溶けていく心地になる。
 静音の唇に口を付けた。統もこうやって嫌な事を一瞬忘れているのかもな、と思った。
 このまま思考を止めてしまい、いつもの様にセックスに移れば精神的に一時だけ楽になるのは分かっていた。だが静音が他人の性欲を解消する役割を担おうとするのは、虐待の中で刷り込まれた価値観であって間違いだと思った。だから彼女を求める行動自体が間違いだと考えた。今の彼女を求める限り、彼女は誤った意識で応えようとするだけだ。
 統は血縁であろうとなかろうと、彼女を好きになったのだろう。血縁関係だから男女関係になってはいけない理由は、自分には分からない。だから統から静音を取り上げる事が出来るとも思えない。更に言うと、彼よりも彼女に対する好意や想念が自分は薄いのだと実感した。
 「今日は、しないの?」
 不意に聞かれた。
 静音の髪を撫でながらぼんやりとしていたのだった。痺れを切らした様に彼女はこちらを見ていた。髪は耳の下付近でジグザグに途切れている。ファッションとしての複雑なカットではなく、彼女は義父に暴力として切られたのだ。それまでは艶の有る黒髪が腰まで伸びていた。
 「静音は統の大事な人だから、もうしないよ」
 言葉を選びながら言った。静音の表情は変わらず、また右の親指を噛んだ。
 「あなたには大事じゃ、ないんだ」
 「違うよ。そうじゃない」
 どう伝えようか考えていたら、静音が話を始めた。一見、関係のない事を。
 「私が小4の時に父が、本当の父じゃない父がね、入らないからって裁縫鋏で切ったの。ここを」
 彼女は脚を開き、スカートの中を指で示した。
 「途中から痛くなくなったんだけど、後から痛いし皮がビラビラするから仕方なく自分で縫ったの。黒い糸しか無かった。針も錆びてた。赤黒くなって、腫れて、何日もしたら糸が急に皮膚に押し出されて出てきたの。異物って勝手に体が拒否をするの」
 途方も無い話の内容に唖然とした。何も言えなかった。統は……当然知っていただろう。
 静音が何を言いたいのか分からなかった。黙っていると彼女は立ち上がり、玄関から出て行った。
 
 夕ご飯は焼き肉だった。
 通常なら大喜びして食べていたに違いない。今は一口大に切られた肉の赤身を見ただけで吐き気がした。血が肉に数箇所付いている。気持ち悪くて目眩がした。
 日曜だからか父が早く帰宅していた。ビールを飲みながら、和やかに肉を口に運んでいる。肉が咀嚼されている。益々吐き気が高まり、口内に嫌な唾液が吹き出す。
 「食べないんか?」
 父が心配そうにこちらを見た。
 「食欲が、ない」
 唾液を飲み込み、やっと答えた。
 「父さん。この子、金曜からあんまり食べないんだよ。なんか病気じゃないんかね」
 サラダを運んで来た母が気遣わしげに言う。
 「サラダは食べられる」
 心配させない様にと、トマトを口にした。青紫蘇ドレッシングの味。そして酸味。また吐き気が誘発されてしまう。
 父の口に目が行く。同じ年代の男の死体が瞼の裏側に浮かんだ。死体の唇は白っぽかった。それを思い出して、ついに吐いた。
 噛み砕かれて一度胃に入ったトマトが、膝に落ちた。血にも見える。また吐いた。今度は薄い黄色の胃液。
 「おい、どうしたんだよ」
 台布巾で、父が膝を拭ってくれた。台布巾の湿った臭いがした。また吐き気に襲われる。
 「病院に行こうかね。父さん、この子、急患センターに連れて行こう」
 母がタオルを持って来て言った。
 「……大丈夫。風邪かもしれない。腹の調子も良くないんだ。もう寝るよ」
 タオルを口に当てると、少し具合が良くなった。タオルは柔らかく、柔軟剤の良い匂いがした。何故だか静音を思い出した。
 「布団を敷いてやろうか?」
 自分の部屋に戻ろうとすると、母の声が背中を追う様に聞こえた。
 「自分で敷けるから、いい」
 何とか答えた。
 吐き気は嘔吐した事で治ったが〝腹の調子が悪い〟と口にした途端に実際に下腹部が痛くなって来た。親の家から出て、直ぐに自分の家の側のトイレに入った。
 原因が思い当たらない位の下痢だった。あの田舎の家で食べた物が悪かったのだろうと思った。静音や統の体調は問題無いだろうか。
 布団を敷き直し、毛布に潜り込んだ。目を閉ざすと、次々に金曜日からの光景がストロボ写真の如く頭の中を駆け巡る。眠っているのか目が覚めているのか分からない時間が永遠かの様に流れ、続いて行く。
 意識を少し失った。気が付くと部屋が薄明るくなっていた。月曜の朝だった。
 
 雨が降っている。
 バスに乗り込むと、誰かのコートが雨粒を吸い、湿った臭いを発している。暗い押し入れのカビ臭さ、それに混じった樟脳の臭いが鼻をついた。嗅覚が急に過敏になった気がする。冬の空気は冴えている。だからかも知れないが。
 紺と黒のコートの群れが校舎に吸い込まれて行く。理数科は女子が殆ど居ない。華やかな色味が無い。教室に入ると一限目から数学のテストだった。統のクラスに顔を出す時間が取れない。彼は推薦枠で入学している為、特に優秀な生徒が集まるaクラスに在籍している。
 小テストは毎時間有る。勉強した筈なのに解法がうろ覚えだった。一つの設問に異様に時間を要した。周囲の、シャーペンが答案の上を走る音が大きく耳に響く。聴覚まで狂ってしまったみたいだった。
 また吐き気がした。耐えていると、どんどん指先が痺れて来る。この体の、この神経はどうしてしまったのだろう。
 何とかテストを終え、後半の授業を受け切った。休み時間に入ってから数学の教師に保健室に行く許可を貰った。担任に伝えておくと彼は言い、症状を尋ねたり心配する言葉は全く無かった。この学校の教員が無感情で事務的な事を、入学直後には知っていた。
 保健室で吐き気がするから休みたいと告げた。初めて見る、白衣を着た白髪が目立つ小柄な女性の先生だった。
 「吐き気はいつから?」
 「一限目の授業が始まってからです」
 「あなた理数科の生徒よね。勉強は大変じゃない?」
 単調な問い掛け。勉強が負担、つまりは精神的な要因じゃないかと言っているのと同じだった。大変じゃない訳がないが、頷いておいた。
 寝不足だったのかも知れず、ベッドに入ってから直ぐに眠っていた。
 夢うつつで腕時計を見ると、昼食の時間になっていた。養護教諭の姿は無い。
 隣のベッドに誰かが居る。クリーム色のカーテンが引いてあった。
 上履きを履いていると、隣のベッドの脇に揃えてある女子用の小さな上履きが目に入った。1-eとペンで書いてある。
 a〜cクラスが理数科、d〜fクラスが普通科だ。静音はeクラスで、足のサイズが異様に小さい。
 カーテンの隙間からそっと覗くと、やはり寝ていたのは静音だった。どうしようか迷ったが、カーテンの内側に入った。彼女が寝ているベッドに浅く腰掛けた。
 眠っている白い顔を見ていた。
 あの男が死んだ事で、静音は解放されたのだろうか。
 昨日の話は、突き詰めると異物ではない者を拒否はしないと言っているのだと捉えた。都合の良い解釈かも知れないけれど。
 もしかすると同情心を買おうとする狙いも有るのかも知れなかったが、静音がそういった計算を働かせるとは思えなかった。
 静音の頬は青白く光る稜線で縁取られている。じっと見ていると目が吸い込まれてしまう。軽く開いた唇に口付けた。唇は冷えていたが、驚く程柔らかい。初めてキスをした時を思い出した。
 静音が息を吐いた。吐息が羽毛の様だった。我に返り、統の存在を思い出した。
 保健室の引き戸が開く気配がした。静音が眠るベッドのカーテンの内側に居る事を、養護教諭に見られる訳にはいかない。慌ててベッドの下側に体を滑り込ませ隠れた。
 男子用の上履きが見える。制服の足元。律動的で特徴的な歩き方で、統だと分かった。
 彼はカーテンを音も無く引き、また閉じた。静音を見下ろしている気配。
 言葉は無い。ベッドがぎしりと鳴った。まさかこんな所で?……校内で。驚きのままに息を殺した。静音が寝ていても関係無いのか。統の身勝手な部分を初めて知った。
 頭上から聞こえる軋みが生々しい。静音が起きた様だ。何故だろう、彼女は苦しげな抑えた声を時々漏らした。それは快楽的なものじゃなかった。人間が、本当に苦痛を覚えている声。統が手で彼女の口を抑えているのだ。何か、くぐもった声だった。こんな状況でこの声を大事な人が発しているとして、自分の性欲を剥き出しにして優先出来るものだろうか。そうだとしたら、統はどこかが少しおかしい。
 喉が絞まる感覚が有った。急速にその感覚が起こり、右手で爪を立てて首を押さえた。そうしなければ叫び出してしまいそうだ。
 これまでは静音を問題無く諦められると思っていた。違う、静音が必要だ。静音が好きだ。こんな事は、有ってはならない。なのに平気で今の状況は進行している。それを止める力が無い。
 死にたいと、この時に初めて思った。静音を守る力が無いなら、自分は居ない方が良いのだと。

 彼らは何事も無かったかの様な素振りで、保健室を出て行った。ベッドの下から、静音がティッシュで細い脚の間を垂れていく精液を拭っているのを見た。統の様な後先を考える奴が避妊していないのかと驚いた。
 母が作った弁当が有ったが、食欲は欠片も無い。そのまま午後の授業を受けた。生物が六十五分で二枠。内容は遺伝情報の発現・発生だった。
 放課後に美術部の部室へ行った。
 高校には水泳部が無く、たまたま中学で全国大会に出ていた事から自分一人の為に水泳部が作られた。学校では練習していなかった。学校が実績だけ欲しがっている。インターハイに出るとなると、校舎の窓から垂れ幕が下がる。夏には総体に出場だけしたが、良い結果は得られなかった。その後、勉強に集中する為にスイミングスクールを辞めた。
 美術部は中学と同じで兼部している。静音が美術部だからだ。絵は得意ではないが彫刻や篆刻が好きで続けている。秋に市の高校生限定文化祭が有り、彫刻を出品したばかりだった。
 無心になれる時間が好きだ。美術準備室には篆刻用の石が無数に有る。先生が用意してくれる。生徒の心のままに自由に表現させてくれる人だ。唯一、この学校で好きな先生だ。良く言えば放任、悪く言うと放置。
 静音は高校入学後、部室に来ていない日が多かった。文化祭も不参加だった。今日も居ないだろうと思っていた。
 部室には誰も居ない。美術部は帰宅部とイコールで、比較的真面目な部員も自宅で作品を仕上げる。ごく稀に話した事も無い二年生の女子が来ている。だがその人が普通科か理数科かも分からない。
 準備室に入り、石材を探す。高麗石という白い石を見つけ、手に取った時に静音が先生の描いている百号のキャンバスの陰から手招きしているのに気付いた。
 「え、来てたの?」
 自然に話そうと思う前に、自動的に口が動いていた。保健室での事が脳裏に浮かぶ。だが静音と話せると思うと、少し嬉しくなった。彼女は相変わらず表情が薄かったが。
 静音はキャンバスの陰で脚を折り曲げて座っていた。正座でなく、小さく脚を畳んだ体育座りをしている。そうしていると彼女の体の小ささがリアルに感じられた。統がこの体を貪っているのは、あの中年の男と同じなのじゃないかと少し思う。どこか残酷な感じがする。
 静音は何も言わず、いきなりこちらの制服のズボンに……ベルトに手を伸ばした。器用に素早く、ベルトを解いた。
 「急に、何」と呟いた。彼女はその言葉を聞いていなかった。耳が聞こえないかの様に言葉を知らないかの様に、空気が話しているかの様に無視された。
 こちらは立ったままだった。彼女は下着から慣れた手付きで性器を掴んだ。そんな事を彼女がしたのは初めてだった。
 動悸と恐怖が最初に有り、それから心地良さが有りその後に常から静音にこんな事をさせている統への嫉妬と不快感が沸き出た。
 気付くと両手の拳の中で掌に爪を激しく立てていた。痛みは無く、理由は分からなかったが勃起しなかった。
 「静音、駄目だよ。やめよう」
 努めて優しく言葉にした。彼女は言葉の代わりに性的な行動をする。特に異性に対し。
 「静音がこんな事をしなくても、傍にいるよ。守るから大丈夫だよ」
 不思議そうな目で静音は見上げて来た。動物の様な目だな、と思った。犬や猫ではなく、もっと意思疎通の難しい動物。例えば鳥や鹿に似ていた。
 「私は、あなたが好きなの。知っている?」
 静音が話した。美術室に有る、誰かが作った微妙に精巧で微妙に下手な銅像が喋ったかの様な違和感。それが彼女の本心なのか掴めなかった。
 「知ってる。分かっているよ」
 答えた。統よりも好きかという言葉は飲み込んだ。
 「俺も静音が好きだよ」
 続けて言ったが、彼女には伝わっていないと感じた。どうすれば伝わるのか考えた。
 考えても、分からない。
 閉じた窓から雪の匂いが洩れている。静音の手は冷えていた。

 静音の母親があの男の行方不明者届を出したが受理されなかった、と静音から聞いたのは二月に入ってからだった。当人が行方不明者不受理届というものを生前に出していたそうなのだ。故郷の人間に探されると困る事でもあったのだろうと統は言った。彼も不受理届の事までは知らなかったと話していた。
 あれから約一か月が経っていた。
 この一か月、眠ろうにも寝付けずに天井の木目を数え続ける夜が続いていた。目を閉じると死体を処理していた統の姿が今、目前に在るかの様に浮かんで来る。食欲は回復せず食べようと思えば思う程、胃に蓋が閉まって行く。
 自宅の脱衣所に有る、デジタルではない体重計は高校入学後の身体測定時の体重のマイナス六キロを表していた。
 その日は古典と数学の学力テストの結果が出た日で、どちらも七十点だった。
 七十という数字を二回目に見た時、何となく人格としての点を示されている気がした。
 統は英語にしろ化学にしろ学年トップのままで、百点かそれに近い点を取り続けていた。生徒用玄関に面した壁に成績表が貼り出されるのだ。努力の問題でなく、人間としての造りが最初から違うのだと突き付けられた。
 家に帰って直ぐ勉強を始めた。机に向かうと三時間は離れられない。課題が多いのだ。
 進学校だからと、数学はIIBの内容に既に入っていた。数列は得意な筈なのに難しいと感じる。対数の方が楽だ。パターンに慣れない。今までだったら統に聞けば理解出来た。この一か月、つまりあの田舎の家から戻って来て以降は行方不明者届の件以外、殆ど話していない。
 廊下や学食で会えば互いに挨拶や日常的な会話をしていた。「焼きそばパンがもう売り切れだった」等の他愛無い話。統がこちらを避けている様子は無い。会えば笑顔も見せてくれる。だけど不思議な程に会う機会が少ない。以前はどうやって仲良くしていたのか思い出せない。
 LINEの通知音が鞄の中から聞こえた。時計は二十時を過ぎていた。夕ご飯の為に親の家に顔を出さないと、また母が心配する。
 携帯を取り出す。LINEは統からだった。アプリを開くと、いきなり何かの写真が送られて来ていた。
 それは体温計の様な形で、統の部屋の出窓に有る観葉植物の横に水平に置かれていた。体温計の様な棒にはニつの□があり、それぞれに判定・終了と両側に文字が入っている。判定の□にピンク色の縦線、終了の□にもピンク色の縦線。
 何だろう、送り間違いかなと考えながら画面を眺めていると統からのメッセージが入った。
 内容は『二人で話したい。これから家に行っても良いか』だった。何が起こっているのか分からないが、動悸が始まった。
 『いいよ』と返す。既読が付き『二十時半に』と再度メッセージが来た。
 鼓動が鎮まらない。それでも親の家のドアを開けた。
 父は未だ帰宅していない。先にシャワーを五分で済ませ、部屋着に着替えた。
 「あんた、またお茶漬けだけで良いの?」
 母が台所から尋ねて来る。
 「それだけでいい」
 そう答えた。お茶漬けが一番食べ易いと気付いた。下痢が続いた後は数日間、粥を作って貰っていたが母に負担を掛けるのが嫌になった。粥と共に卵は食べられた。しかし魚や挽き肉は吐き気がして食べられなかった。他にプリンや、メロン等の酸味が無い果物は食べる事が出来た。
 メロンも冬は高価なので親に悪いのだが買って来てくれる。親は息子が急激に痩せた事を心配している様だ。それでも下手に問い詰められたりしないから助かっている。実力より偏差値の高い学校に入った事で、勉強面がストレスなのだと解釈しているらしい。あながち間違いでもない。
 お茶漬けを三分で食べてしまうと、部屋に戻った。団地のコンクリートの階段はスニーカー越しにも冷たく感じられる。踊り場の窓がガタガタと小刻みに風で揺れている。こんなに寒い夜の中、統は今こちらに向かっている。
 彼の住むマンションは徒歩で十五分、自転車なら五分程度の所に在る。階下まで降りて待っていようと思い、三階まで降りた所で入り口から上がって来る淡々とした足音がした。
 「外、寒かったでしょ。早く」
 頷く統の顔はいつも通りだったが、僅かに表情が硬い気がした。
 四階の自分の家に入ると、点けっ放しのストーブの前にクッションを敷いて統を招いた。
 「ココアか何か飲む?」
 尋ねたが、統は首を振った。そして話し出した。
 「さっきの写真。何か分かる?」
 「え?あ、分からなかった。何?」
 正直に答えた。
 「妊娠検査薬。静音が妊娠した」
 自分の両目と、口が開いている事だけが意識出来た。次の統の言葉で、更に驚愕が増した。
 「俺の子供かお前の子供かは分からない」
 やっぱり統は知っていた。静音の行動。その上であの殺人の決断をしたのだ。
 「統。責める訳じゃないけど、ちゃんと避妊してた?逃げる訳でもないけど俺は避妊していたよ」
 静音が身籠っているのは統の子だなと確信した。保健室で見た光景が思い出された。
 「静音はずっと月経が無かった。だから必要性が無いと思っていた。だが排卵はしていたって事になるな。結果論に過ぎないけどね」
 どこまでも自分勝手でどこまでも他人事な口調だった。客観視が出来ているとも言えるが統は何か、思い遣りの様な何かが欠けている。
 「栄養状態が悪いんだから感染症だって怖い、ちゃんと静音の事を考えてやれよ」
 吐き捨ててから、もう一つの可能性が浮かんだ。
 「あの養父の子供って事は…」
 言いながら吐き気がした。言葉にするだけで静音を汚している気分になった。
 「それは無い。中学からは、ほぼこっちの家に寝泊まりしていたから。以降の性被害は無い。物を取りに行って身体的な暴力を振るわれただとか無理矢理酒を飲まされたとか暴言を吐かれたとかだ。髪を切られたり」
 それでも充分酷い話だった。聞きたくなかった。統も顔を歪めていた。
 「それは静音が話した事?」
 確かな話なのかと、強調して尋ねただけだ。統はこう答えた。
 「そうだ。静音があれを殺して欲しいと俺に頼んで来た。だから殺す動機が無いと叶えられないと答えた。そうしたら色々な事を話し出した。虐待の傷痕も見た。お前には教えられない。詳しく話すには静音の許可を取らないとならない。第一、気分が悪くなるだろうから」
 この前の、ああいった話だろう。統は静音があくまでも彼にしか話していないという前提だ。しかし確かに全貌を知っているのはこの世で今、彼と彼女だけなのだろう。
 「静音は何て言ってる?」
 彼女の気持ちが優先だ。堕胎したいのなら、費用を半分支払う。小学生の時から毎年のお年玉は貯金していた。
 「ここが理解出来ないが、産みたいと言っていた」
 統は本気で理解が出来ないという顔をしている。
 だが自分は対照的に、ああそうなのかと納得した。静音も本能的に統の子供だと感じ取っているのだろうと思った。彼女は統を愛しているのだ。愛の実体が何かは知らないが統が愛おしいのは事実だろう。だから二人の子供を殺したくないに違いない。
 「俺が学校を辞めて働く。代わりに静音とお互い十八になったら結婚する。それで育てる」
 考える前に口が動いていた。統は怪訝な表情でこちらを窺う。
 「それは何だ、学校からの逃避感情?中卒でまともな職に就ける訳が無いだろ。第一、静音は結婚しても貞操観念なんか身に付かない。いくら言っても駄目だったからな。耐えられるのか」
 統の目がこれ程、冷酷な光を帯びている事に今まで気付かなかった。いつから……あの男を殺めてから。もしかしたら、それ以前から?
 「じゃあ、静音と寝てるって親に正直に言えるの?実の妹とだよ。お前らにとっては恋愛だろうけど世間からは近親相姦としか見られない」
 この殺気を内包した、冷ややかな統の目から逃げる時じゃなかった。
 「第三者との子で良いだろ。誰の子か分からない話にする。父は俺達の妹か弟として育てるだろう」
 統の言い分に耳を傾けていると、彼は静音の意向には反対しないのだと感じた。彼女が産みたいと言っているのだから、それは実行させる心積もりなのだ。
 「統よりも静音を想っているとは言えないけど、俺も静音を好きでいる。だから犯罪でも手を貸す気になったんだ。どっちの子供でもいい。三人の子だと考える。一緒に育てるなんて虫が良いかも知れない、でも不可能じゃないと思う」
 言いながら思った。静音は自分と結婚しようが何だろうが統との関係を絶つ事は無いだろう。子供も二卵性双生児との間に生まれるのだから、障害を持っているかも知れない。それでも。
 渋々という風情で統が頷いた。思った通り、彼は了承した。結果が同じなら過程は気にしない、そう考える人間だと予測した通りに。
 
 放課後に普通科のeクラス前の廊下に居た。廊下には冷気が漂い、ロッカーに続く生徒玄関周辺には雪が降りしきる外気の匂いが満ちている。
 HR後に教室から吐き出されて来る制服の集団。遅れて、静音が一人で出て来る。普通科の女子のスカートは膝より高い丈が主だが、彼女は膝が半分隠れる丈に留まっており一見は優等生に見える。
 よく見ると今日の彼女は髪型が整っていた。統の家で過ごす中、美容室に行ったのだと思う。
 「話がしたいんだけど。部室に来て」
 話し掛けると、いつもと同じ調子で静音は頷いた。意外そうな様子も無い。
 部室には案の定、誰も居ない。入って電気も点けず、ドアを閉めた途端に話を切り出した。
 「統から聞いた。静音の口から聞きたい、本当に産みたいんだよね」
 彼女は表情を変えない。目はこちらを見ている。
 「そう。産みたい」
 「統との子供だから?」
 理由を聞きたかったのだが、静音は夢を見ている様な目で見上げて来る。
 「それは、わからない。産むのに意味や理由が必要?」
 時々、彼女は哲学者の様な命題を口にする。どう答えようか考えていると、静音が今度は質問をして来た。
 「あなたが私と結婚するって統から聞いた。結婚してくれるの?」
 彼女の目の中に感慨を見つけようとしたが、見つからない。心の在り様が全然掴めない。
 「するよ。静音が好きだから。前もそう言った。信じられない?」
 静音の育った環境は人を信じられるものではないと知っていたのに、勢いで尋ねてしまった。
 「あなたの事は、信じられる。ありがとう」
 確かに静音はそう言ってくれた。頭のてっぺんから力が抜けていく様な安心感が体中に広がって行く。
 〝あなたの事は〟と彼女は言った。では、統の事は?
 無意識に思わせぶりな表現をしているのだろうかと疑ってしまう。しかし、この猜疑心は自分の問題なのだと思い直した。複雑な関係性を受け入れるのだから、今後こんな事を考えるのはもう止めよう。
 「お母さんには話した?」
 確認しておかないといけなかった。これから両親に話すとして、静音が一緒に居なければならない。彼女の母にも会わないとならない。
 「電話をしたわ。面倒臭そうだった。誰の子よ、だって」
 「何て答えたの」
 「彼氏の子、って」
 「そうしたら?」
 「堕ろしなよって言ってた」
 予想していた通りの反応だった。静音の母親というのは、母である事の自覚や良識が無い人らしい。統の父が離婚した理由も分かる気がした。
 「私は学校を辞める。どっちにしてもこのままだと赤点が多くて進級出来ないし、お腹が大きくなったら学校に通えなくなるもの」
 静音は高校生という身分に未練が無い様だった。彼女は学生とか主婦とか、何らかの括りに収まる存在に見えない。どこかが超然としていて、その点は統によく似ている。
 「俺も学校は辞めて働くよ。父親が土木関係なんだ。解体や塗装の仕事で十五から働いてる人が居るって聞いた事がある」
 目を開けながらうたた寝をしている様な顔をして、静音は聞いていた。そしてゆっくりと言った。
 「あなたには似合わない。産んでしばらくしたら赤ちゃんを保育園に預けて私が働くから、学校は辞めないで」
 赤ん坊を産んだ後に静音が働けるとは思えなかった。今ですら、こんなに痩せ細っている。無事に産めるかどうかも危うい。
 「仕事なんだから、似合うとかの話じゃないよ」
 言いながら、統ならどうするのか考えてみた。彼は大学に通いながら静音の為に詐欺にだって手を染めそうだ。
 静音の母親は一か月に一度程度、山の中の旅館から帰って来るらしかった。彼女の母親が戻って来たら、携帯に電話して知らせて欲しいと頼んだ。
 両親は二十二時過ぎなら在宅している。その時に静音と彼女の母に来て貰い、五人で話したいと言った。彼女は頷いた。それから無感情な佇まいのまま抱き付いて来た。
 この部室……美術室にも冬の匂いが充満している。暖房を付けたとしても埃臭い中、しんと心が冷える様な深まる冬の香りが消える事は無い。これが雪国の冬で、幼い頃から鼻の奥に残っている匂いだ。あらゆる思い出がこの匂いの中に染み付き、何年も後にまた冬が来ると今のこの出来事も思い出すのだろう。
 藍色に翳って行く部室内、足元から冷やされる空気。静音の体は抱き締めると、より小さく感じる。制服越しにも骨の形を掌に覚える程、華奢だった。どうしてこんなに人形の様な造形をしていて、人形よりも無感情なのだろう。人形の方が目を生き生きとさせている様に思える。
 静音の感情を奪った原因が運命というものなら、それを変えてしまおう。静音に感情を取り戻す努力をしよう。
 「病院は親に話してから一緒に行こう。今、体調は?変だから検査薬を試したって事だよね」
 静音の顔を覗き込む。彼女の頭は改めて見ると、肩よりも低い位置に有る。
 「吐き気と微熱がある。それに気分が変。時々イライラする。検査薬は統が買って来たの。あれは99%以上の精度なんだって」
 統は彼女の気分の波が分かる位には近い存在なのだ。自分には静音がどんな気分でいるかどうかすら分からない。どうにもならない事実だが、嫉妬してしまう。いつか彼女が感情を露わにしてくれる時が来るのだろうか。
 
 静音から連絡が来た夜は、全く唐突だった。けれど覚悟は決まっていた。どういう順序で親に話すか。
 「母は怒っているの。本当に連れて行って良いの?」
 消え入りそうな声が携帯の向こうから聞こえる。
 「連れて来て。ちゃんと説明するから」
 心臓が高鳴り出した。けれども冷静な口調を心掛けた。
 彼女は母親の車で直ぐに向かうと言い、通話を終えた。
 大きく深呼吸を繰り返す。
 静音と結婚すると決めてから、少し食欲が回復していた。色々なケースを考えあぐねて熟睡が出来なかったが、以前の様に理由の見えない睡眠不足ではなかった。
 この数日、雪が積もっていた。静音からの電話の前に除雪車が通っていたから、この家までは十分もせずに到着出来るだろう。
 トイレに入ってから、顔と手を冷水で洗った。掌に水を掬って一口飲んだ。喉を氷の塊が滑り落ちて行く様だった。これから人生の次の一歩が決まる。
 親の家に入り「相談したい事が有る。これから彼女と彼女のお母さんが来る」と両親に告げた。それで察しが付いた両親は、目に見えて慌て出した。 
 「あんた……まさか」
 母が次の言葉を口にしようとした時、玄関のチャイムが鳴った。
 先に母が出てしまう。「湯本です」という低い女性の声がした。
 蒼白な顔色の静音が現れる。「大丈夫だよ」と伝えてから彼女の隣に座った。
 居間に彼女の母親が入るとお茶を用意する暇も無く、皆で互いに名乗り合った。
 彼女の母は統には勿論、静音にもあまり似ていなかった。一見、感情が乏しい顔。しかしその下に激情が見え隠れしている。輪郭が静音に少し似ているな、と思いながら見ていた。目線が鋭く、唇は厚い。化粧が派手でバランスの悪い美人だった。
 「この子が妊娠していまして、お宅のお子さんが彼氏だと言っているんですよ」
 父と母が一瞬、たじろいでいるのが感じ取れた。
 「そうです。俺の子供です。高校は辞めて働きます。十八になったら結婚したいと考えています」
 一息に言った。父が小さく唸った。
 「そんな簡単なもんじゃない」
 本当に微小な気配だが、父の怒りにも似た感情が膨らんだのが分かった。怒りというより、やり切れなさ。殴られるかもな、と思った。
 右隣に静音がいて、彼女の隣に父が座っていた。父の気配に、静音がはっきりと怯えたのが
手に取る様に感じられる。
 右手で静音の両手を握った。彼女は膝の上で両手を丸める様にしていた。その手ががくがくと震えていた。
 父と母はその様子を見ていた。
 「まあ、本人達の意思が大事なんですから」
 母が言うと、静音の母親は言い放った。
 「お宅様には堕ろす費用だけ出して頂ければ」
 静音の睫毛に涙が溜まっているのを見た。それは彼女の手に落ち、彼女の手を握っているこちらの手の甲にも落ちた。彼女は声も無く表情も動かさず、ただ涙が溢れて重力で下に落ちるままにしていた。
 「静音は義理の父親に虐待されていたのに、お母さんはその時、何をしていたんですか」
 静音の涙を見たら堰が切れた。彼女の母親に対する弾劾を始めてしまった。一度話し出すと止められなかった。
 「あたしは何も知らないから。仕事で帰れないんだよね」
 「食事もまともに与えてないって事はあなたも育児放棄しているんじゃないんですか」
 「もう高校生なんだからそんなの構ってらんないでしょ」
 「静音が怪我をしていても放置してたじゃないですか。それで親って言えるんですか?働いて俺が養うって言ってるんだから結果的に厄介払い出来ると思っているんじゃないですか」
 ピシリと左頬が鳴った。静音の母親に叩かれたのだと、一拍後に理解した。軽く撫でられた程度にしか感じなかった。この人と言葉で対話するのは無駄であり、不可能だと知った。
 静音の母親はそのまま静音を置いて帰って行った。玄関のドアが乱暴に閉められた。
 「お前も言い過ぎたな」
 父が言って、立ち上がった。作業服のポケットから煙草を取り出そうとしたが、妊娠中の静音が居る事を思い出したか改めて座り直した。
 母は泣いている静音の頭を撫で、ティッシュを数枚取って彼女の涙を拭いている。
 「二人共、高校は出ろ。その上で進学でなく就職すれば良いさ。生まれて来る子共々、それまで面倒は見るからな」
 父の声は優しかった。母も頷いている。静音が事情を抱えた家の子供だと分かったからかも知れない。静音を傷付けるとも思ったが、敢えて言ったのだ。両親に彼女の苦しみを少しでも伝えたかった。だから幸せにしたいのだ。そして、どうしても静音の母親を責めたかった。この、まともな自分の親の前で。
 静音は現在、彼女の父のマンションで双子の兄と暮らしていると両親に伝えた。その双子の兄は統だという事も。マンションまで彼女を送って行くと告げると、近い内に彼女の父に挨拶に行きたいと両親は言った。
 「帰る前に、静音ちゃん。夜ご飯は食べたの?」
 母が静音に声を掛けた。母の声も、穏やかで優しい。
 静音が首を振ると、母は台所に行った。コンロで火を使っている音、電子レンジで何かを温めている音。
 「安定期に入るまでお米、食べられないかもしれないけど。食べられる分だけ食べてって」
 ご飯と漬け物、ナスと油揚げとネギの味噌汁。キャベツと舞茸と豚肉の炒め物。レタスとゆで卵、トマトのサラダ。
 静音は恐る恐るといった様子で、着たままだったコートを脱いで箸を取った。
 「私が食べて良いの?」
 何て事を聞くのだろうと思った。
 「母さんが静音に食べて、って。少しでも食べないと体に良くないよ」
 静音は安心した様に「ありがとう」と呟いた。続いて母と父に向かって「いただきます」と言う。
 味噌汁を全部、静音が飲んだので驚いた。それからトマトも。炒め物はキャベツだけ食べていた。米には手を付けなかったが、漬け物は食べていた。偏食が妊娠から来るものなのか、彼女の元々の好き嫌いなのかは知らない。それでも知る限り、彼女は初めてきちんと食事をしていた。箸使いが割と綺麗な事を今更、見知った。
 丁重に「ごちそうさまでした」と言う静音を、母は目を細めて口元を綻ばせて見ていた。兄の彼女に対しては、こんな顔をしていなかった。
 静音はお皿を台所まで片付けていた。母に「洗って良いですか?」と尋ねていた。母は洗わなくて良いよと答えていたが、その答え方にも笑顔にも彼女を受け入れた事が明らかだった。
 静音の肩にコートを着せ掛けていると、父が「お前もいつの間にか面倒見が良くなっていたんだな」と嬉しそうに言った。
 部屋に自分のコートを取りに戻る。静音はドアの外で待っていた。コートを着て玄関を出ると、彼女は黙って手を繋いで来た。
 「お父さんにはまだ妊娠の事、教えてないんだよね」
 尋ねると、静音は頷いて腕に絡み付いた。彼女は言葉では気持ちを表さないが、こうして過剰なスキンシップをする時が有る。不安なのだろうなとこの時は思った。
 大粒の雪が紙吹雪の動きで舞っていた。静音の髪に舞い降りて来た雪を、撫でる様にして払い落とした。彼女の髪は猫の背中を撫でた時と同じで、とても柔らかい。
 「早く帰らないと。統が心配してるよ」
 何故そんな事を口走ったのか、口にしてから後悔した。しかし静音が気にした様子は無かった。
 彼女が寂しさや不信感をこちらに抱いてはいけないが、統が孤独感を持ってもいけない。本当は彼を嫉妬させてみたいとも思う。これまでに散々感じて来た事だから。彼への敗北感も。
 だが、統の事は得がたい親友だと思っている。友達として、一人の人間として好きだ。
 彼が徹底的にマイナスの感情に駆られたら非常に危険な気がする。顔色一つ変えず、人の頭部を全力で凶器を使って壊せる人間。人体を無情に解体出来る人間。それも、静音の様に虐げられた背景が有るのならまだ分かるが、そんな原動力が無いという精神状態で。怒りと彼女を助けたい一念で、そこまで出来るものだろうか。少なくとも自分には出来ない。だから統には敵わないとも思うのだ。
 静音はこちらの腕に頭を寄り掛からせ、薄く笑みを浮かべていた。彼女が幸福そうにしている。その事実は、この上無く嬉しい。
 統の心情を静音は考えないのだろうか?それが気になる。今までも考えた事が無いのか、考えるだけの力が身に付いていないのか。
 互いに無言だった。けれど幸せだった。思考すべき事が次々に浮かびながらも。
 マンションのエントランスに入る。大きなメタリックなドアには金色の縁取りが有る。慣れた手付きで静音は暗唱番号を入力し、オートロックを解除した。ここには何度も来ているが、改めて見ると団地とは比べものにならない程立派だ。統は毎日、このドアを通り広いロビーを抜けて自宅に戻るのだ。あの田舎の、崩れそうな家屋で死体を片付けていた彼の姿との落差。そんな事に関与する人間にも思えない。静音の存在が彼を変えたのかも知れないし、彼は元から二面性が有る性質なのかも知れない。
 「お父さんに挨拶だけしておくよ」
 静音に言うと彼女は微笑んだ。
 「統が根回しをしていると思うの」
 明るい口調で、そう言った。これまで聞いた事が無い様なトーンだった。もしかすると彼女は、意外に計算高いのだろうか。統をも上手く利用している様にも見えて来る。今の彼女は不安そうには見えない。と言うよりは最初から感情が安定していないふうに見える。だからと言って、彼女を好きな気持ちは揺らがないが。
 エレベーターで十一階に昇り、統の家のチャイムを鳴らした。インターフォンの向こうから鍵を解除する音がした。
 「おかえり」
 玄関ドアを開けたのは統だった。
 「上手く行った?」
 こちらにともなく静音にともなく尋ねる。
 「うん。湯本さんに頬を叩かれたけどね」
 そう言うと、統は口だけで愉快そうに笑った。笑顔が本心からなのか、よく分からない。
 「お父さん、静音の彼氏が来てるよ」
 どこか業務的な響きで、統が彼らの父を呼んだ。彼らの父とは、以前から面識が有る。
 「こんばんは。送ってくれたんだね。ありがとう」
 うちの父とは対照的な、品の良い話し方。糊の利いた襟が付いたグレーのシャツに深緑のニットのベスト、黒い綿のズボンという出で立ち。夜なのに整った服装だ。穏和な笑顔で頭を下げてくれた。
 静音が妊娠していると明らかになっても、声を荒げる人では決して無いだろうなと思った。
 静音が妊娠九週だという事は、翌々日に病院で判明した。母と共に病院へ付き添った。
 母は静音の世話をすると完全に決意していた。
 「あんなに寂しそうな目をする子を、生きていて初めて見たんだよ。何でもしてあげたいね」
 母はそう言った。
 統と静音の父には、両親と共にケーキを持って会いに行った。どうしても電話が繋がらず、統に仲介を頼んでようやく会えた。
 「この子の保護者が機能しておりませんでね。私は実父ではありますが、静音を預かっている立場です。学費も成人までの必要経費も負担します。静音が結婚したいと言うのだから、賛成する以外にはありません。学校とは話し合いますが、留年して産後に復学も出来ますでしょう」
 どこまでも落ち着いた対応だった。そこに統は同席していなかったが、彼と彼らの父は話の運び方がそっくりだ。基本的に要点しか言わず、和やかな口調を崩さない。
 その日の静音は体調が悪そうに見えた。紅茶にもケーキにも口を付けず、目も合わせてくれない。
 静音はこちらの家で暮らす事に話がまとまった。統の父が仕事で留守の場合が多いからだった。出産時は勿論、妊娠中に体調が急変した時に対処が遅れると良くないという理由からだ。統は普段、塾に行かねばならない。
 「これから夫になる人と離れて暮らすのも可哀想ですからね」
 彼らの父は高校生の内に結婚する事や、子供が出来た事に関して何の偏見も無いらしかった。つまりは興味が無いのだろうなと思った。
 先日の修羅場の夜とは百八十度違う、談笑しながらの円満な時間だった。

 学業については、両親と担任と面談をした。卒業後に就職する事になった。この学校では前例が殆ど無いが、地元の有力企業が高卒であっても進学校の卒業生を幹部候補として採用しているそうだ。学校が就職を斡旋してくれるとの事だった。
 静音は体調不良に加え成績が揮わない事も有り、彼女の意思で退学が決定した。
 静音の退学後から、一緒に暮らす事になった。あの男を殺した場所で。
 おかしな感覚と、信じられない位の喜びの両方の思いが有った。彼女を表からは守れないと思って来たが、今では公的に自分が婚約者だ。統が裏方に回った形だ。
 兄の部屋に、両親が新しい家具を入れてくれた。テーブルやソファーを。兄が同棲の為に持って行ったからだった。兄には「お前が先に結婚する事になるなんて」と言われた。静音の姿を見て「影がある美少女風」と兄は評した。彼女の容姿が一般的には整っている方なのだと、やっと意識した。そんな観点では見た事が無かったから。
 両親はガスも通してくれた。キッチンにコンロも設置し、冷蔵庫も購入してくれた。室内にはエアコンも入った。
 問題は浴室だ。静音は何と、気にならない様子でそこでシャワーを浴びていた。「頑張って掃除をしたから」と平然と言った。自分にはとても無理だった。相変わらず親の家の浴室を使っていた。
 静音が高校を中退した翌日から、何もかもを遮断する大雪になった。バスや電車は運休や遅延が相次ぎ、二日間休校になった。
 学校を辞める手続きは、湯本さんが担任教師と面談してから行った。静音も同席していたが、後から尋ねても面談でどんな話をしたのか教えてくれなかった。
 雪は音を吸い込む。静寂の中、静音と一緒に眠る時間は圧倒的な多幸感に包まれていた。何気無い話をしながら、手を繋いでいつの間にかどちらからともなく深い眠りの世界に落ちている。彼女と居れば、よく眠れる。
 食欲は多少回復したものの、やはり肉と魚だけが食べられない。魚はしっかりと火を通してあっても生々しく感じられる。刺身なんて論外だった。
 静音は悪阻が酷くなり日常的に吐いていた。母が時々病院に連れて行き、点滴を受けさせる。この寒い時期に、静音は何故だか氷をよく噛んで食べていた。貧血がそうさせるらしい。鉄剤を処方されていた。母が作るヒジキの煮物だけは、静音がよく食べていた。母は食欲が無い静音が手料理を食べてくれるという事実を嬉しがっていた。
 静音と二人で育児書や妊娠に関する本を読む様になった。彼女は本が好きらしい。兄の部屋の押し入れに入っていた漫画をダンボールから出して読んだり、父が持っていた本棚の中の古い探偵物の小説を読んだりしていた。

 特別授業が有った土曜日、学校から帰ると浴室の扉が閉まっていた。嫌な予感がし、扉を開けると小さな浴槽に水を張った静音が、頭を丸ごと水に浸けていた。服は着たままだ。薄手の白い長袖のワンピースの半身も、どうしてか水で濡れていた。
 「静音!何やってんの?」
 慌てて彼女の頭を引き出すと、静音は咳き込む事も無く人形より無感動な目でこっちを眺めた。
 「こんな事したら、子供もお腹の中で苦しいんだよ」
 そう言うと、静音はようやく口を開いた。
 「吐き気が、苦しいの。死にたくなったの。私の事は、大事じゃないの?気になるのは、赤ちゃんだけ?」
 蒼白い顔色で途切れ途切れに言う。
 「静音がまずは大事だよ。子供も大事だけど。じゃあ、静音が死んだら俺が悲しむって思わないの?統も泣くよ」
 静音は目を逸らした。
 「統は、泣かないわ。死のうとして、ごめんなさい。私の事、嫌いにならないで」
 感情が篭っていない口調だ。静音は何を言っているのだろう。
 「嫌いになんかなれないよ」
 答えると、彼女はしがみついて来た。かなりの強い力で。この力の重みが、静音の出してくれた感情の小さな爆発なのだと思った。
 浴室のコンクリートの床は冷たい。妊娠中は特に足や体自体を冷やしてはいけないと本に書いてあった。今はここが死体が切られた場所だという事を意識に上らせず、浴槽から水を抜いて静音の髪をバスタオルで拭いた。薄いワンピースを脱がせ、ニットのワンピースを着せた。母が静音にと買って来た、水色の暖かそうな服だ。
 ストーブの前で静音と毛布にくるまっていると、昼食も摂っていないというのに徐々に眠たくなって来た。彼女が隣に居ると眠くなる。
 セックスを一切していない。彼女が妊娠しているから、安定期ではないからという理由でなく単純に性欲が鳴りを潜めていた。さっきの様に着替えさせた時も、性的には何も感じない。それどころか、下着姿の静音に気後れした。肋骨がくっきりと浮く程に痩せている彼女の、胸だけが大きくなった様に感じた。
 彼女を、ただ愛おしく感じる。静音の言葉には従って生きたい。そして彼女が喜ぶままに行動したい。そう願っている。これは何か、どこか変なのだろうか。彼女との子供ではなくても生まれて来る命は、ただ命なのだから一生懸命に育てる。それがおかしいのか自然なのか自信は無い。彼女への依存、状況への依存かも知れなかった。依存だとして、依存を貫く人生は誤りなのだろうか。
 「本、読みたいな」
 静音が呟いた。
 「統の家に本がいっぱいあるの。連れて行って」
 図書館にも本が有るよ、と言いたかった。彼女は統に会いたいのだ。それを禁じる事は出来ない。統は彼女の兄なのだから。
 「統にLINEしてみるよ」
 静音が凝視して来る。仕方無く携帯を開いた。『静音が本を読みたいから、そっちの家に行きたいって』と送る。直ぐに返信が来た。『今日は塾がないから来られるならどうぞ』と。
 静音に彼の返事を伝えると、彼女はコートを羽織った。髪が未だ濡れている。このまま外に出たら風邪を引いてしまう。ドライヤーで乾かしてやり、改めて梳かした。
 玄関でブーツを履いた。静音のブーツはロングブーツだ。これも母が選んで買った物だった。手を貸して履かせる。傘を一本、手にした。
 手を繋いで階段を降りた。妊娠後期になったら、四階まで静音が昇り降り出来るのか今から心配だった。
 歩道にはまだまだ雪が残っていた。更に雪が降っている。車道を縦列で控え目に歩く事にした。傘は静音に貸した。
 統の自宅に着き、中に入れて貰うと室内の暖かさに驚いてしまった。「廊下も暖かいね」と呟くと、マンションは機密性が高いのだと統が教えてくれた。
 床暖房が有り、統の部屋には加えて白いファーのラグが敷いてある。こうした暖かい環境でエレベーターも有る場所の方が、静音にとっては間違い無く良い筈だ。申し訳無い気持ちになる。
 働いて貯金して、何年経ったらマンションを購入出来るのだろう。普通はローンを組むものなのだろう。
 統のお父さんは地質学の博士号を持っていると聞いている。地殻変動について研究しているそうだ。以前、親の仕事や生涯賃金について話していた時に統は「上場企業の課長よりは多少年収が落ちる程度」と彼の父親について評し「父の仕事は地味。俺ならもっと効率的に稼げる職に就く」と言っていた。
 統の言い分にはこちらの父親に対しての遠慮が有ったのだとも思っている。高校に進学してみると、統に限らず医者の子供やら弁護士の子供やらが教室には犇めいていた。
 両親は家も買わずに団地に住んでいても、長く共働きで倹約しながら相当な貯蓄をしている。息子達を仮に私立でも大学に行かせる事、息子達がマイホームを持つ段階になったら頭金を援助する為、そして夫婦の老後の費用を貯めておくのだといつも話している。働き者である両親を誇りに思っている。
 この社会には、職業による収入格差が歴然と存在している。より良い就職の為、まずは評価される高校に入った。だが大学には行かない選択をした。今後、統との格差が大きく広がって行くのだと予測出来る。自分の生き方にプライドを持ち続けるには、かなり厄介そうだ。
 静音は統の部屋に入り、本を物色している。彼の部屋にも多くの本が有るのだが彼の家には図書室という名の、本だけの部屋が有る。四方壁を背の高い書架が囲んでいる本格的な部屋だ。様々なジャンルの本がぎっしりと有る。過去に本を何冊か借りた事が有った。
 統が温かい紅茶を淹れてくれた。缶に入ったままの貰い物らしい立派なクッキーも出してくれた。昼食を食べていなかった事を思い出し、数枚のクッキーと紅茶で空腹を紛らわせた。尤も、少食になったせいで胃が萎縮し空腹感を覚える事が殆ど無くなっていた。
 彼はオーディオを操作し、やや音量を大きくした。題名が分からないクラシック音楽。
 「図書室に行って良いよ。ちょっと静音を借りるから」
 そう言い残して、統は自室に入りドアを閉めた。そして鍵も閉めた。鍵を閉める音が確かに聞こえた。
 静音を借りるという意味が分かったのは、一瞬後だった。彼女は妊娠中で、悪阻が酷い。それでも統は兄で在るのに静音に性的に危害を加える。
 危害だと思ったのにソファーから立てなかった。統の部屋を激しくノックしてドアを開けさせ静音を連れて帰るという一連の行動が、想像は出来るのだが実行出来ない。
 何故なら静音が、統に会いたがったから。
 携帯で『妊娠中 セックス』と検索してみる。初期は流産の危険性から、控えた方が良いという記述が多い。『妊娠初期 性欲』で調べると、強まる女性と弱まる女性に分かれる様だった。この辺りの事を統は既に知っているだろう。
 そして静音は流産しても良いと思っているか、流産の可能性を全く意識していないかどちらかだと思った。彼女は簡単に死のうとする位なのだ。そもそも命の尊さなんてものを、実感して育って来たとはとても思えない。
 統の部屋から物音がした。彼らの気配を無意識の内に探っていた。そんな自分が嫌になり、脱ぎかけたコートを羽織り直してリビングを出た。廊下を通って図書室を素通りし、ブーツを履いて外に出た。
 行く宛ては無い。付近の本屋にでも行こうかと思い、雪の少ない道を選んでいると入った事の無い路地に入った。
 真っ白な雪景色の中、凛とした佇まいの建物が不思議と光を放っている様に見えた。建物の屋根の先端には、十字架が雪を戴いている。
 勝手に敷地内に入れるものなのか、しばらく立ち尽くして周囲を確認した。雪に埋もれた看板が有り、手で拭うと〝土曜日 夕方五時 主日ミサ〟と書いてある。携帯を見ると、十六時四十分過ぎだった。
 敷地に入り、重い木製の扉をノックしてみた。
 「どうぞ。お入りになって下さい」
 ほんの少しだけ扉が開いた。映画で観る様なシスターの服装をした女性だった。
 「初めてのかたですね。どなたかのご紹介でしょうか」
 年齢が計れない女性だ。頬の肌は艶々しているが、眉毛に白髪が混ざっている。
 「いいえ。歩いていたら見つけました。ミサというのはお祈りの会ですか?ただの学生ですが、参加出来ますか」
 女性は微笑んだ。
 「そうです。お祈りとお話の会です。もちろん、ご参加下さい。神様のお導きでいらしたのですね」
 室内に導かれた。
 そこには靴箱が有り、集会所の様な雰囲気だった。ブーツを脱いで上がる。
 女性に付いていくと、ドラマ等で出て来る様な教会らしい聖堂が扉を大きく開いて待っていた。入り口の付近に天使が盆を持っている飾りが置かれている。女性は水を右手全体に浸してから頭、胸、左肩、右肩の順に指を軽く折り曲げて動かした。
 真似して良いのか分からず、ひとまず頭を下げて手を合わせてから入堂する。
 古いが、油でよく磨き込まれた木製の座席が並んでいる。人はお年寄りばかり数人しか居ない。作法が分からないので、このまま女性の隣に座らせて貰った。ストーブが三台有り、どれも赤く活動している。
 立派なマリア像が正面に聳え立っている。その両側に出入り口が有る。ステンドグラスがぐるりと聖堂の天井に程近い壁へと嵌め込まれていた。パイプオルガンが中二階に有り、シスターの服装の中年の女性がその前に座っていた。
 ステンドグラスに目を奪われていると、いつの間にか初老の男性がマリア像の近くに立っていた。この人が神父なのだなと衣装で思った。
一見、普通の男性だが大きな瞳がこれ以上無い程に輝いている。学校や近所では、決して見られない美しい瞳だ。人を信じ、人を愛する瞳。それらを疑った事が無い瞳。顔立ちがどことなく外国人を思わせる。ハーフやクォーターなのかも知れない。
 聖堂に居た人々が立ち上がった。自分を入れて六人。二階の女性がパイプオルガンを弾いている。多分、讃美歌なのだろう。皆が歌い出した。曲が分からない為、黙っていた。曲の途中に「讃美歌ですか?」と隣の女性に尋ねた。女性は歌い終えてから「聖歌です」と答えてくれた。神父は教壇の様な場に移動している。そして、よく通る声で言う。
 「父と子と聖霊の御名によって」
 アーメン、と皆が答える。
 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんと共に」
 またあなたと共に、と皆は答えた。
 「聖なる祭儀の前に私達の罪を認め、赦しを願いましょう」
 その言葉で、身が硬くなった。隣の女性は手を合わせて頭を垂れ、沈黙している。
 気付くと冷や汗が出ていた。背中や脇が気持ち悪い位だった。
 皆が何かを唱える。神父が応え、皆でアーメンと言う。
 また聖歌。座ったり立ったり歌ったり、卒業式の練習に少し似ていた。違うのは、祈りと聖書の朗読の時間が有った事だ。隣の女性が冊子を見せてくれる。
 座って神父の話を聴いた。それは興味深く、体や心に沁みて行く内容だった。
 「罪の赦しとは悔い改めた心を神に示すならば、神から無条件で与えられるものです。人の通常の気持ちとしては、赦された歓びや安心感より新たなる人生を踏み出したいと望みます。そして何らか過去との折り合いを付け、埋め合わせとなる行動をしたく願うのが自然な成り行きでしょう。即ち償いと呼ばれるものです。償いとは新生活での薬と言えます。それは人間が行う業であり、罪の赦しを完成させよとする一要素。罪の内在的結果からの解放。ですから〝ゆるしの秘跡〟の後に償い業を果たすことが定められているのです」
 そしてまた、何か唱えて祈る。また歌う。その後に布で覆われた籠が回って、お金が集められた。寄付だと察して五百円玉を入れた。それが少ないのかどうかの判断が出来なかった。
 それから歌や詠唱が続き、皆が祭壇に向かった。小さな丸い白いパンを貰っている。何となく行ってはいけないのだなと感じ、黙っていた。隣の女性が「共に行きましょう。拝領は今は出来ませんが、祝福をお願いしますと仰って」と教えてくれる。神父に対し、女性に言われた通り告げた。これも何となくだが手を合わせて頭を深く下げた。
 その後に祈りと詠唱、聖歌で終了した。
 隣に居てくれた女性にお礼を伝えると、柔らかく「またいらして下さい」と言ってくれた。
 魔法が掛かった様な夢見心地で、統の家に静音を迎えに行く。ロビーで部屋番号を押し、チャイムを鳴らした。自動ドアが開く。エレベーターで昇って行くと、玄関のドアは開いていた。一応「お邪魔します」と再び言って入った。二人は何も無かったかの様な顔でリビングで紅茶を飲んでいた。静音が席を立ち、新たに紅茶を注いでくれた。
 小綺麗な室内で、重厚な大理石のテーブルの上にティーカップを置いた静音の手に視線を注いでいた。その手は真っ白で、長い指をしている。当然だが、統と指や爪の形が似ていた。
 整えられた髪型で女子らしい服装をし、白い革のソファーに座っている彼女は本来ならこうした家で大事に育てられた筈なのだ。今の彼女の姿に違和感は無く、このリビングに馴染んでいる。
 皺一つ無い白の長袖のシャツと、ジーパンではなくすっきりしたチノパンを身に付けた統と並んでいる様子も、双子だと言われなければ恋人にしか見えない。彼らの父は理性的で頭の良い人だとは思うが、男女間の機微を感じる目は持っていないらしい。又は父親が居る時、二人が完全に双子らしく振る舞っているかどちらかだ。
 「どこに行ってたんだ?LINEしたのに」
 別段、責める口調でもなく統が言う。
 「本屋に行こうとしたら、近くに教会を見つけたんだ。成り行きでミサっていう集会に参加して来た」
 「そう言えば、近所にカトリック教会があったな。ミサはどうだった?」
 「話の内容は少し難しかったけど、何だか落ち着く所だった」
 静音を見ると、目を閉じて寝息を立てていた。これ程に彼女が眠るのは妊娠が関係していたのだと今更思った。以前から、よく眠っては居たが。
 「罪が許される為にはどうすべきかっていう話だったよ」
 ふうん、と統は興味をそそられない様に息を吐いた。
 「あれから寝つけなくなったり、食欲が無くなった。特に肉や魚は食べられなくなったんだ。罪の意識がそうさせるのかって考えてたから、ちょうど神父さんのした話が罪に関するテーマで気になった。また行ってみようと思うよ」
 統はソファーの端に頬杖を付き、こちらを探る様に見詰めた。
 「それは生理的な症状だ。あの死体を見たショックだよ。病院に行けばPTSDと言われるだろうけど正直に話すわけにも行かない。お前は罪の意識なんて持つ必要が無い。だから忘れろって暗示をかけたのに。根が真面目なんだな」
 褒められているのか、貶されているのか分からない口振りだった。
 「少なくとも俺は罪の意識なんか無いな。正しい事しかしていない。熟睡するし肉も食べる。お前は疲れているんだよ。だから教会に足が向いたんだ。宗教は弱った人を支える為に存在している。行動理念の為じゃない。特にこんな平和な国では」
 統は気怠く話を続ける。
「お前が教会に行こうとするのは、生きている現況に疲れているからだ。神というのは現象でしかない。創世も現象。人間が発生したのも現象。だから人間は神の一部とも言える。人間の宿命も現象。だからそれも神の息の様なもの。言うなれば神の為す業。神には、つまり現象には意識が有る。神は人間的。現象というのは実は好き嫌いをしている。選別して起きている。
あの男は発生しても無用な長物だった。だから消滅した。俺はこの先外科医になり、多くの人間の故障を治す。世界に役立つかどうか、個人の考え方が神の好みかどうかで恩恵という現象が起きる。罪や罰というのは、あくまで人間が定めたに過ぎない現象。あの件を警察に洗い出されたら面倒だとは思うが、だからと言って怖いなんて感情は無い。その場合は時と場に応じた対処をして行くだけだ。しかし結局、その面倒な現象は起こらない。神という更に大きな現象がそれを決めているからだ。絶対の確信が有る。そして静音にも罰という現象は無い。近親相姦だろうが愛という感情を以て行動しているからだ。神という現象は愛が大好物なんだよ。静音の中では浮気でも不倫でもない。単純に愛だ。愛が欠けた環境で育っても愛が行動原理となる人間がいる。それは奇跡とも呼べる。奇跡という現象は、まさしく神の発現と言える。お前は俺が殺人という現象を起こしてから人格が変わったと思っている様だが、何も変わっていない。あの男の殺害や処理には疲労しただけ。体の疲労だからもう回復した。あの件は俺の何をも変えていない。何故なら静音への愛の発露で殺人をしたからだ。神という現象は愛が介在した事柄を認める。愛とは言っても真実かどうか、度合いが強いかどうかを精査しているだろうけどね」
 気怠い口調だが、統は饒舌だった。彼の話す内容は過激な様でもあり、神が現象だというのは飛躍した比喩の様でもあった。それでも妙に説得力が有り、真理を語っているのかも知れないとも思えた。統はそんな風に、真実が胸に迫って来る語り方をする。その語り口は神父以上だった。統が普段からこんな事を考えていたのかそれともたった今、思い立った事を話したのか判断出来ないが聞いていて舌を巻いたのは確かだった。これが、統の思う真実なのだろう。
 話をしていて口内が乾いたのか、統は紅茶を飲み干した。
 「もう一杯淹れるけど飲む?」
 穏やかな声で言う。統の心の動きは、静音よりも掴みにくい時が有る。
 頷いて、一気にカップを空にした。紅茶は完全に冷めていた。
 「アールグレイとダージリン、どっちが良い?」
 また優しい声音で統が尋ねる。どちらの味もよく分からない。ダージリンと答えた。
 丁度、座ったまま眠っていた静音が寝惚けて目を開けた。
 「それを飲んだら帰るよ」
 キッチンに入った統を目で追って伝えると、彼は軽く頷いた。今日は彼が笑った顔を見なかったなと帰路で思い返した。
 
 安定期に入ると、静音の腹部は少し膨らんだ様に見える時が有った。
 この中に子供が入っている。何とも言い難い不思議な感覚が有る。
 母子手帳は未だ入籍が出来ない為、名の欄は湯本静音の記載だった。
 桜が舞う時季になっていた。静音と手を繋ぎ、夕方は毎日散歩に出掛けた。
 二年生に進級した。勉強は曲がりなりにも取り組んでいた為か、bクラスに入る事が出来た。
  統の家に時々、静音を送って行った。彼らが二人で過ごしている間、教会に通っていた。教会はミサの時でなくとも自由に入り、祈る事が出来た。会衆席に座って聖書を熟読する時間は、安らぎと慰めになっていた。
 食事は相変わらず肉と魚が食べられない。静音は対照的に食欲が出て来た。それでも、普通の十代の女子が食べるカロリーには届かない。病院では出産までに十ニキロ増やす様にとの指導が有った。
 毎日、静音とベッドに入って眠りに就く。奇妙な夢をよく見る様になっていた。その中には、あの田舎の家で見た様な怖い夢も有った。
 統が静音の死体の腹部を切っている夢。又は統が医師の格好で静音の膣から赤ん坊を引き摺り出している夢。これらは決まって息苦しさの余りに飛び起きた。起きると全身が汗だくだった。その度にタオルで汗を拭き、着替えていた。
 一度、自分が女になっていた夢を見た。しかも風俗嬢として働いている夢だ。客が大人になった容貌の統だった。彼はもう一人の風俗嬢をホテルに呼び出す。それが静音だ。無表情に拍車が掛かった彼女の姿は、もはや影なのだ。統が様々な世間話をする。影となった静音はそれを全く聞いていない。やがて彼は静音の首を絞めながら彼女を犯すのだが、それをただひたすら眺めていなければならないという夢だ。これは吐き気の中で目覚めた。
 静音の体に性的な意味合いで触れる事は、無くなっていた。彼女が差し当たって理由も無く涙を流している時、抱き締めるという事は日常的に有る。彼女は目から水が出ている程度の認識なのか、泣いている事にも気付かずにいた。涙が出る体の反応と心の動きがバラバラな様子だった。心に悲しみや怒りが燻っていて涙が出るのに、意識が無い。体を起こしていても意識が無い様な感じだ。
 静音はいつも、本を読んでいた。又は眠っている。時には掃除もする。親の家の掃除も手伝う。父が帰宅するまで夕食を待っている。彼女の行動は両親に喜ばれていた。彼女は笑顔を作れないが、所作や言葉遣いが丁寧で礼儀正しい。
 静音が親の家に夕食を摂りに行き、テーブルの片付けや皿洗いをしている時間帯。こちらは先に軽食と入浴を済ませ、ニ年になった途端に大幅に増えた課題をこなしていた。地理は後回しにして物理に取り掛かっていた。
 通学用の鞄の中で携帯が鳴った。携帯を手に取ると、統からの着信だった。
 『祖母が死んだ。明日に通夜が有る。静音は腹が目立つから来なくて良い。そう伝えておいて欲しい』
 あのお婆さんが亡くなったのか。醤油団子を歯茎で慎重に噛んで食べていた、背を丸めた小さな姿が思い出された。人が死ぬのは誰であっても悲しいと思ったが、静音を虐げていたあの中年の男は別次元だと思い直す。
 『どうした、聞こえるか』
 黙っていた為に統が尋ねて来た。
 「わかった、伝える。静音がショックを受けないと良いけど」
 『人はいつか死ぬものだからショックなんか受けないと思うが』
 統にお悔やみの言葉を言おうとしたのだが、取り止めた。
 「でも静音は何も無くても、よく泣いてる」
 『妊娠中だから不安定なんだろ。あの家の辺りは四月でも未だ寒い。妊婦には支障しか無い。親戚は殆ど居ないが田舎だから互助会だの何だので人が少しは集まる。静音が妊娠していると分かれば根掘り葉掘り聞かれて、有る事無い事言われて隣部落まで噂が広がる。部落なんて言葉が生きている位だ。差別も徹底的に存在する』
 そんな話で締め括り、統は通話を切った。
 静音が部屋に戻って来た。
 「今、統から連絡が有った。お婆さんが亡くなったって」
 「……そう」
 表情を動かす事なく、静音は頷く。悲しくても態度に出せないのだろうと思う。
 「お通夜とかお葬式には、まだあっちの地域が寒いから出席しなくて良いって」
 硬ばった顔で彼女は再び頷き、読みかけの本をベッドに持ち込んで横になった。本を読んでいる。 
 あのお婆さんと静音は、あまり親しくなかったのだろうか。統の様子も平時のままだった。彼の場合、動揺する事がそもそも無いのだろうけれど。
 自分自身に置き換えて考えてみる。今は父方と母方の祖父母が健在だが、亡くなれば間違いなく泣くだろう。祖父母は遠方に住んでいて滅多に会わない。それでも悲しみの感情が湧く。
 そう言えば祖父母を始めとした親戚には、静音が無事に出産して入籍をしてから……更に自分が高校を出て就職をしてから挨拶に回ろうと両親が言っていた。乳幼児が目の前に現れたら、まず最初に可愛いと思うのが当たり前だ。しかも旧世代の祖父母は特に、孫がきちんと結婚して就職もしていれば何も文句は無いだろうと父が言った。めでたい事が重なるだけだ、と。
 勉強に戻った。二時間近く集中し、静音の様子を確認すると本を開いたまま眠っていた。ベッドに潜り込んで彼女の寝顔を眺めた。
 頬に指先で触れると、少し柔らかさが増している。肌は以前よりも滑らかだ。髪が少し伸び、同い年の女子というよりは少し年上の大人の女性にも見えた。統にこの人を触らせたくないと、急に強く思った。
 静音の髪を繰り返し撫でていると、彼女は目を瞬きながら開けた。
 「おばあちゃんの夢」
 囁き声で、嬉しそうに呟く。
 「夢に出て来た?どんな夢?」
 「おじいちゃんと一緒だった。幸せそうに笑ってた。死ぬのは寂しい事じゃないの。逆よ。嬉しい事だから」
 静音の目には、何もかもを飲み込む吸引力が有る。その目でこちらを直視しながら言う。
 「私も何度も死にたいと思って来た。本当に苦しくてつらい時に、あと一時間だけ生きてみようと思って来た。そうすると何とかいつも切り抜けられる。だから、お産もそうやって乗り越えるつもり」
 頷きながら、耳を傾けた。静音の声は心地良い。か細いが、何をも否定されない深みの有る声。彼女の名前は静かな音と書く。名前そのままの声だ。
 「死は最後の救いなの。昔、義理の親に包丁で刺されて死を感じたことがある。楽で凄く気持ち良かったの。なのに引きずられるみたいにして、こっちに戻らされた。誰かに……。あれは誰なのか見当がつかないけど、神様なのかも。つらいなら死んだとしても良いんだろうなって思えた。死を逃げ道に選んでも良いの。だってどうやって、こんな世界で生きろっていうの?死ぬしか無い状況を知らない人が死んじゃ駄目だって簡単に言う。でも、その状況までを本気で生きていないと、本気で死を選ばないと、あの気持ち良い場所には行けないんだと思うの」
 一つ一つの言葉を静音はゆっくりと、小さな囁きで紡ぐ。聴いている内にどうにも泣けて来た。どれだけの困難な状況で……この体でこの声で、破壊された精神で悪夢が現実になった様な世界で、どうやって彼女は生きて来たのだろう。
 「まだ、死にたくなる事は有るの?」
 尋ねると、彼女は少し考えてから首を振った。
 
 統によれば、お婆さんの遺体は火葬場で焼かれ庭のお墓に納骨されたそうだ。
 明治や大正の時代は山林等の私有地に埋葬する事が認められていたが、現代では公的な墓地以外には通常、納骨が出来ない。だが届出が有れば、代々の土地に一族が眠る事が認められているそうだ。あの家の庭に有ったお墓は〝みなし墓地〟と呼ばれるらしい。
 統と静音の母である湯本さんは、通夜にだけ出席したと言う。統は彼の父と共に出席していた。彼の父、つまり掛河さんも義理で出席していた。湯本さんは統に「あんたは孫なんだから後始末してよ」と言って去ったという。あのお婆さんの娘なのに。
 十五才以上は届出人になれるという事で、統はお婆さんの死亡届を出した。火葬場の予約やら僧侶の手配やらは葬儀社が代理で行っていたが、葬儀の代金は何故か掛河さんが負担する事になったそうだ。お婆さんは互助会を利用していて、積立が有ったが全費用は賄えない。普通は娘である湯本さんが支払うものなのだが。
 村の人はお年寄りが総出で、受付や掃除等の雑用をしてくれたそうだ。とは言え、お年寄りが四人。その地の風習で、女性が亡くなると懐刀を遺体の胸に置くのだそうだ。男性なら刀を置くという。その為、模造の懐刀が村人の間で用意されていた。更に通夜の夜は近親者が一晩、遺体の側に付き添う習わしが有った。この役を統が務めた。
 「お父さんは?あの家に泊まったの」
 火葬や納骨が済み、統が戻って来てから静音を彼の家に連れて行った。リビングで葬式饅頭を貰った。意外に紅茶と一緒に食べても美味しかった。
 「まさか。父はタクシーで隣駅前まで行ってビジネスホテルに泊まったよ」
 一人であの家で、遺体と一緒に一晩を過ごすなんて統は実に肝が据わっている。しかも死体を隠したトイレが有る家で。
 「私が行ければ良かったの。ごめんなさい」
 本当に済まなそうに、静音が呟いた。
 「静音は来ない方が良かったんだ。あの日は特に冷え込んでいたから」
 統は静音に対して話す時やや甘い態度になる。直視したくなくて話題を振り、こちらに注意を向けさせた。
 「Wi-Fiも無いし暇じゃなかった?すぐ寝たの?」
 「ランプの灯りで赤チャを解いていた」
 赤チャというのは赤チャートの略で、数学の参考書だ。赤は最高峰レベルの大学を目指す生徒が解きたがる。自分は青チャートをやり込む事にしている。進路に関係無く、問題解決の能力を伸ばしたり論理的に物事を考えたいからだ。
 統に張り合う実力は無い。彼もマウンティングの積もりは無く、事実だけを伝えて来たのだろうが静音との会話を遮ったから機嫌を損ねた様にも見える。
 何事にも興味を強く惹かれる事が無さそうな彼が、静音にだけは執着する。やはり双子だからなのか。双子で在りつつ恋人だからなのか。統の子供を宿らせているからか。
 「今日は長く静音を借りるから十八時半頃に迎えに来て」
 不意討ちの様に統が行った。時計を見ると十六時。一週間に一度は静音を会わせているが、今回は葬儀が有った事で前回から十日空いていた。
 頷いて教会に向かったものの、これからも一生こんな風に過ごすのだろうかとやり切れない感情が胸に淀んだ。せめて統が静音をこちらの家まで送ってくれれば良いのだが、帰り道は彼女と一緒に居たい気持ちも有る。
 聖堂はいつもの様に、ひっそりと息を潜めている。その中の会衆席に腰掛け、ポケット聖書を取り出して開いた。
 何故か集中が出来ない。聖堂に今日は誰も居ない。静寂の中、床に突っ伏して泣く事が出来たらどんなに楽になるだろう。
 ふと、告解室が目に入った。
 あの中で赦しの秘跡が行われる事、それは受洗者でなければいけない事を知っていた。洗礼を受けるには週一で二時間ずつ、計一年間の勉強会に参加しなければならない。
 この教会内で稀に見かける二十代〜五十代の信徒は統が以前言っていた様に「単に人生に疲れている人」又は「クリスチャンに憧れているだけの人」という感じだった。真面目な信徒には見えず、形だけミサに時々参加している雰囲気だ。聖歌も口パク、ミサの進行も分からず祈りの言葉も唱えられない。聖書を通読した事も無さそうだ。ミサでの流れや聖歌の歌詞、祈りの文言は数回通えば丸暗記出来る内容なのに。
 無論、丸暗記だけでは良くないと分かっている。自分は祈りにも聖歌にも敬意を払っていた。ここで「神」と呼ばれている存在、その存在を重んじて懸命に生きる人々への敬意だ。
 例えば聖書も教会も知らない幼児がマリア像を見て、特別な光を感じたとする。そのまま心を律して大人になり自分なりに慈善活動をしたり祈りを捧げていれば洗礼に関係無く、その人はカトリック信徒なのではないかと思う。洗礼自体に重みが有るとは思えない。
 告解室がどうなっているのか、見てみようと扉を開けた。内部は狭く、木製のスツールが置かれていた。真ん中に仕切りが有り小窓が有る。仕切りの向こう側に神父が座るのだ。
 すると、仕切りの向こうの扉が開く音が聞こえた。
 「回心を呼び掛けておられる神の声に、心を開かれて下さい」
 赦しの秘跡が始まってしまった。
 「あの、初めてなのですが」
 とりあえず告げた。
 「そうですか。神の慈しみに感謝し、神を信頼してあなたの罪を告白して下さい」
 汗が額に浮かんで来る。スツールに浅く腰掛けたものの、どこまで話せば良いのか脳が真っ白に溶けて行く感覚に陥った。
 「罪を告白します」
 ここでの作法は冊子に目を通したので知っていた。罪を告白すると言ってしまうと、話すべき内容がスッと喉に降りて来た。
 「親友の恋人を好きになりました。その人の身の上を守る為に自分と親友は、ある人を傷付けました。それ以来ほぼ毎日悪夢を見ます。食事も思う様に出来なくなりました。親友の恋人は親友との子供を身籠っています。ですが特殊な理由から、自分が彼女と結婚する事になりました。自分は彼女を愛していますが、親友と彼女は更に強い愛情で結ばれています。彼女は同時に二人の異性を愛する事を悪い事とは捉えていません。このまま結婚しても良いのか悩んでいる訳ではありません。どうしても彼女とは結婚したいからです」
 神父は沈黙している。話し終えてから、こんな話をして申し訳ないと思った。
 「今日までの主な罪を告白しました。お聞かせして申し訳ありません。赦しをお与えにならなくても結構です」
 つい、そう伝えてしまった。その後、直ぐに神父の言葉が降った。
 「ある人を傷付けた事に関し、償いをせねばなりません。その行いに等しく見合うだけの、善行を積み上げましょう。その事と結婚とは分けて考えなければ。あなたの愛に従い、生涯を共に歩む契りを交わし、彼女が潔斎する様に愛で導きなさい」
 〝けっさい〟を頭の中で漢字に変換した。静音が統を切り離す筈が無い。だが情報を全て開示していないのだから、この教示は最大限に正当だと思った。
 「主日ミサに出席し、祈りなさい」
 「はい。その通りにします」
 「では、神の赦しを求め心から悔い改めの祈りを唱えなさい」
 祈るべき内容は憶えていた。
 「神よ。慈しみ深く私を省み豊かな憐れみによって私の咎を許して下さい。悪に染まった私を洗い罪深い私を浄めて下さい」
 言いながら、これで救われるなら何をしても良い事になるなと考えていた。
 神父の右手が小窓から現れ、目の前に翳された。
 「全能の神、あわれみ深い父は御子キリストの死と復活によって世をご自分に立ち返らせ、
罪の赦しのために聖霊を注がれました。神が教会の奉仕の務めを通し、あなたに赦しと平和とを与えて下さいますように。父と子と聖霊の御名によって、あなたの罪を赦します」
 アーメン、と応える。
「ありがとうございました」
 感謝を込めて伝えた。
 「罪をお赦し下さった神に感謝を捧げ、喜びと平和の内にお帰りなさい」
 まさに慈悲深い声音が返って来た。
 告解室を後にすると、どっと疲れた。話した事で一瞬、気が楽になったかと感じたが逆だった。
 俄かに泳ぎたいという強烈な衝動が迫り上がって来た。
 水と一体化するあの感覚を味わいたいと、強い渇望が胸に浮かぶ。その直後、三角関数のテストが待っている事を思い出す。一息に体が、見えない沼に淀む感覚に支配された。目的も無く泳ぐのは無駄にも感じる。
 例えば強豪校の選手と競いたいとか、全国で一位になりたいとか大きな目標が有れば努力出来る。だが自分は人に勝ちたいという動機が幼少から無かった。ただ泳ぐ事が好きで、泳ぎが向いていて記録が意に反して全国レベルだっただけだ。
 もしかすると統もただ生きているだけなのに頭の性能が元々良いだけで、別に誰かと競い合う意思は無いのかもしれない。きっと彼は、ある面では孤独なのだと思う。だから彼には静音が必要なのだ。
 
 夏休みは殆ど静音と家に引き籠っていた。
 健診とマザークラスには一緒に出掛けた。そして一週間に一度の統との〝面会〟に連れ出す。その間、自分は教会に行った。
 エアコンの風ばかりでは良くないと思い立った夕方に、窓を開けた。
 海からの風の匂いが鼻腔に感じられる。風向きで、たまに潮を多く含んだ風が網戸の隙間から入って来る。海は歩いて行ける距離に有る。
 「海の匂いがする」
 同じ事を感じたらしい静音が、こちらを見上げた。
 腹部に風船でも入っているかの様な姿。体付きは華奢なままなのに、目に入る度に何とも言えない不可思議な心境になる。
 母が静音の為にマタニティーワンピースを買って来ていた。彼女は今、ワンピースしか着ない。エアコンで調節する室温は時々寒い様子で、カーディガンを常に羽織っていた。外に出ても病院や統の家を寒いと感じるらしく、やはりカーディガンを脱がなかった。それだけではなく、義父に傷付けられた腕や鎖骨付近の傷痕を気にしているのかもしれなかった。彼女は日焼けもせず、貧血も相まって肌色は真っ白だった。そして、髪が肩に付く程度まで伸びた。
 「海を見たい」
 静音が呟いた。
 「いいよ。見に行こう。もう夕方だから日差しも強くないよ」
 外は未だ明るい。静音に白い帽子を被せた。帽子も母が買って来た物だ。帰って来た時に暑いのでエアコンは付けたまま、戸締まりをしてスニーカーを履いて出掛ける。母にはLINEして知らせておく。
 ヒグラシが鳴いている。空気は夏に疲れた様に重たいが、小学生の頃の夏を思い出す懐かしい匂いが漂っていた。沈む事を惜しんでいる太陽の光。草いきれの香り。
 静音に合わせて、深呼吸をする様に歩いて行く。何て贅沢な時間なのだろうと思う。この一瞬、一瞬を閉じ込めておければ良いのに。時間の流れが夏の終わりの優しい光を纏っている。
 「見て、海がある」
 静音が帽子の下から顔を覗かせた。海の向こうに沈んで行く太陽の朱色を浴びて、同じ色の瞳になっている。あまりにも率直で偽りの皆無な、信頼を寄せてくれている視線だった。
 「海は……いつもここにあるよ」
 海は美しかった。そこに存在する何もかもが。波の模様も砂の紋様も砂に落ちて眠っている白色の貝殻も、見る角度によって表情を変える石も生命力に満ちた風も。色を秒ごとに変える太陽光の波も。
 「赤ちゃんの名前、今、浮かんだの」
 静音が微笑んだ。
 「何て名前?」
 「絆。絆にしたい」
 健診では、性別が女の子だろうと言われていた。
 「良い名前だね」
 そう答えて穏やかな波を見ていたら、海が手招きをしている気がした。
 「泳いで来る」
 靴と靴下だけ脱ぎ、波打ち際に向かった。後ろを振り返ると静音は何も言わずに微笑んだままだ。
 彼女が笑っている。それだけで今は全部が許されている様に感じた。
 波間に合わせて体を沈めた。Tシャツとジーパンが海水を吸って重くなる。波の動きは地球の呼吸だと思った。泳ぐのに理由は必要じゃないみたいだ。そうだ、泳ぎたければ海に来れば良い。
 
 九月になった。予定日は二十九日だ。
 九月十九日の深夜だった。静音が腹部を抱えて横たわり、時々息を詰めているのが分かった。隣で寝ていて自然に目が覚めた。
 「静音。もしかして周期的に痛みが有る?」
 尋ねると、微かに彼女は頷く。
 携帯に入れておいた陣痛計測アプリを使い、静音が痛そうな時と痛みが収まっていそうな時とで一時間程度の記録をした。彼女は何も言わず耐えていて、痛いのかどうか表明しないので分かりにくい。この時は周期が不規則だった。いつの間にか二人共眠っていた。
 朝方、六時前に起きると静音が時計を見ながらメモを取っていた。
 「六分間隔になっているみたい」
 そう言って顔を歪めた。強く痛む様だ。
 七分間隔になったら病院に連絡しなければいけないと、マザークラスで教わっていた。育児雑誌にも書いてあった。
 顔を洗ってから制服を身に付けた。その間、確認すると確かに六分程度の間隔で痛みが有る様子だった。母を呼びに行った。
 母は早起きだ。玄関ドアを開けて台所を覗くと、弁当を作っていた。
 「母さん、静音の陣痛が始まったんだけど。もう六分間隔だよ」
 「じゃ、すぐに病院に連れて行かないと。まあ初産だから五分間隔でも間に合うはずだよ。産婦人科に電話しとくから」
 母は口振りこそ落ち着いていたが、菜箸をフライパンの脇に取り落としていた。
 「お父さんが出勤前で良かった。ついでに乗せてってもらおう」
 父は朝食を食べた後で新聞を読んでいた。もう作業着に着替えている。
 「父さん、静音が陣痛だから病院に連れて行って。一緒に行くから」
 「わかった。お前はまず、飯を食え」
 喉が詰まった感覚だった。食欲なんか無い。冷蔵庫にプリンが有った。これなら食べられる。静音もプリンは好きだ。二個取り出し、スプーンとほうじ茶を持って部屋に戻る事にする。
 陣痛の合間に、静音はプリンを口にした。食べたくて食べるのでなく、出産の為のエネルギーとして無理に食べていた。それを見て、一緒に食べる事が出来た。
 「お茶も飲みたい」
 そう言って、静音はお茶を指差した。それからカップを傾ける仕草の後に、唇を指先で示した。口移しして欲しいと言っているのだ。
 キスすら最近はずっとしていなかった。何でなのか、自分でも理由が分からずにいた。静音の心は統に向いているのだと思っている。それならキスをする事が虚しいとも感じる。
 ほうじ茶を口に含んで、ソファーで蹲った状態の静音の唇に注いだ。
 「頑張るね」
 ゆっくりと飲み終えてから、静音が瞳を弓なりにした。それからまた、無言で腹を守る様に体を丸め込んだ。何だか、胸が詰まって苦しくて泣きたくなった。
 診察券、保険証、母子手帳、静音用に用意した財布、着替え、産後の下着。産後に使うというパッドが二種類。骨盤ベルト、新生児用の肌着、ベビーウェア、ガーゼ、バスタオル、歯磨きセット、トラベル用のシャンプーとコンディショナーにボディーソープ。洗顔料。時計。移動中の吐き気対策の袋。前開きのパジャマ、退院時のワンピース。忘れ物は無いか、入院用に荷造りしていたバッグを確認した。
 静音の髪を梳かし、お湯で濡らしたタオルで彼女の顔を拭いた。着替えられる状態ではなく、彼女は部屋着のままだ。部屋着の上から、いつものカーディガンを着せた。
 自分も急いで歯を磨き、髪を簡単に梳かして通学鞄を持つ。
 父と母が迎えに来た。静音の体を母と共に両側から支え、階段を少しずつ降りた。一度、陣痛が来た。三人で立ち止まる。母は静音の腰をさすっている。
 父は荷物を持って先に降り、入り口に車を回していた。
 後部座席で静音の手を握りながら、頭を凭せかけている彼女の背後を過ぎ去って行く町並みを見ていた。九月二十日。柔らかな朝の光。よく晴れた秋の風景が広がっている。父は車の窓を控えめに開けていてくれた。朝陽が静音の髪に降り注ぐ。新しい命が生まれる日に相応しい日だと思った。
 病院の駐車場に着く。これから父は仕事に向かう為、静音に「またプリン買って来るから」と運転席から振り返った。
 「父さん、プリンはさっき食べさせたよ」
 笑って言うと、静音も母も父も笑ってくれた。
 病院の緊急時裏窓口から入った。受付で静音の名前を書いた。こうした自分の一動作や口にした言葉を、これから生まれて来る絆が静音の体の中から観ている気がした。
 産婦人科病棟は四階。エレベーターで上がる。二人の女性看護師が来た。一人は静音を連れて行き、一人は荷物を受け取った。
 母とロビーのソファーに座る。
 「学校には体調不良で病院に行くから、少し遅れて登校するって電話で言っといたよ」
 「あ。忘れてた。ありがと」
 「あんたが学校への連絡を忘れるくらいだから、よっぽど慌ててたんだな」
 うん、と頷いた。
 母からは「しっかり者だ」と言われて育ったが、一気に多くの事をやろうとするとミスが出る。統なら、こんな時でも冷静なのだろう。
 看護師に伴われて静音が現れた。薄ピンク色の入院着に着替え、点滴をしていた。腹部だけ尖った様に突き出し、対照的に首や手足は細い。入院着で点滴スタンドに寄りかかる静音はまるで病人だった。
 「赤ちゃんへの感染予防の為の点滴です」
 点滴を見ていると、看護師が教えてくれた。
 「それでは陣痛室に向かいます。産まれましたらご連絡いたします」
 「お願いします」
 母と声を揃えた。
 制服を着ていた為か、看護師は静音の兄弟だと思っている様子だった。
 静音は苦しそうに身を捩っていた。周りの声は聞こえていなかった。看護師は静音の腰や背中をマッサージしている。
 「静音、頑張って。連絡があったらすぐ来るよ」
 大きめに声を掛けると、ようやく静音はこちらを見て小さく頷いた。
 母だけが病院に残る。病院前からバスで学校へ向かった。
 
 遅れて到着した学校。授業が終わる度に、母からLINEが来ていないか確認した。
 三限の物理が終わった後にaクラスに行った。LINEで言うよりは直接、統に伝えるべきだと考えた。
 「掛河統を呼んで」
 aクラスの廊下側にいた生徒に頼むと、統を連れて来てくれた。
 統はこちらの顔を見るなり「陣痛が始まった?」と言う。何故分かるのだろう。
 「経過が分かったら連絡して」
 言動が素っ気ない。しかし、統が緊張状態に入ったのだと感じ取れた。
 四限の古典の授業中、彼らは双子だから互いに危機的な状況になると何らかの感覚を共有出来るのかも知れないと思い至った。出産は命懸けだというから、統も苦しみの断片を感じられるのかも知れなかった。
 昼休みに入り、携帯を見ると母からLINEが入っていた。
 『うまれたよ。昼休みに電話ちょうだい』
 と書かれている。驚いた。もっと長時間かかると覚悟していたから。
 廊下に出、直ぐに電話した。
 「もう生まれたの?」
 「12時ちょうどに生まれたの、女の子よ」
 問うと、電話に出たのは静音だった。彼女は携帯を持っていない。母が傍に居て貸したのだろう。
 静音の声を聞いた途端、いきなり涙が溢れた。急いで袖で隠して拭った。
 「泣いてるの?」
 静音の声が聞こえる。
 「2460グラムだったの。安産だったって褒められた」
 うん、と鼻声で答えた。
 「兄に伝えておいて」
 彼女は統のことを初めて〝兄〟と言い表した。母が近くに居るからだろう。だがその言葉で統は彼女にとっては兄であって、夫になるのは自分なのだと改めて実感した。甘く貫かれる様な感覚だった。
 直ぐにでも病院に向かいたかったが、学校が終わったら来なさいと母から言われた。静音が体を休めないといけないから、と。
 またaクラスに統を呼びに行った。これはやはり直接伝えないとならない。
 廊下に出て来た統は無言でこちらを見た。
 「屋上の手前の所で話そう」
 そう言って、屋上へ続く立ち入り禁止の階段へ手招きした。
 屋上には出られない。鍵を壊せば簡単に出られるが、統はその数段下の階段に座った。
 「無事に産まれたんだな」
 「12時ちょうどに。女の子。2460グラムで安産だって」
 「静音から聞きたかった」
 統は下を向いた。
 静音から聞きたかった、という言葉を反芻した。
 次に統が顔を上げた時、彼の睫毛が濡れていたので目を逸らした。見てはいけない気がした。二人には、二人だけで過ごした長い時間が有るのだろうと思う。
 「おめでとう」
 思わず言うと、統がふっと笑った。
 「そっちこそ、おめでとう」
 祝福し合って、二人で笑った。こんな風に統と笑い合うのは久しぶりだった。
 そうだ、あの日、死をあの男にもたらした日以来だった。あの日の夜に統とこうして何気ない話で笑った。今、新しい命の誕生した日に再び二人で笑う事が出来た。
 「湯本さんに連絡しなくて良いのかな。一応、静音のお母さんだし」
 疑問が湧いて言うと、統は首を傾げた。静音の仕草に似ていた。
 「あの人は祖母の通夜以来、行方不明らしい。父が言っていた。連絡が付かないって」
 「何で?あの人も放浪癖が有るの?」
 統は「あの人の事はよく分からない」と言った。彼に分からないのだから、誰にも分からないのだろう。おそらく、統の父にも。
 「一度聞きたかったんだけど、統のお父さんは何で湯本さんと結婚したの?言っちゃ悪いけど、釣り合ってない様に見えるんだけど」
 統は、また少し笑った。
 「あの人は昔ああ見えて看護師だったんだ。思いやりの欠片も無いくせに。一人娘で祖父母が甘やかした結果、病院勤務なんか長く出来なくて辞めたけどね。父が若い頃に肺炎で入院した時に色目を使われたらしい。話が合う訳も無いのに。結婚したは良いが二年で離婚したんだよ」
 そうだったのか……と妙に納得した。想像がつく範囲内だった。
 「旅館での勤務は長いらしいからマルチタスクは得意なんじゃないか?」
 統がそう言った時、五限目の予鈴が鳴った。
 「今日、放課後に病院に行くけど。一緒に来る?」
 誘ったが、統は首を振った。
 「静音が疲れているだろうから。明日も兄妹の関係性だと急ぎ過ぎだろう。父と明後日に訪ねる事にする」
 生まれたのは統の子供なのに。本当は今日、直ぐに行きたいのだと分かった。  
 「大丈夫だよ、双子の兄なんだから。俺と一緒に行けば問題ないよ」
 統は素早く考えている顔つきになった。そして「分かった。今日行く」と答えた。決断が速い。
 五限は数学だった。集中しているとあっという間に時間が流れる。
 ホームルーム後、手早く準備してaクラスの廊下で待っていた。aクラスは課題がb以下のクラスより多い為、ホームルームも長い。配られるプリントが多く、こなす課題の指示も多い。
 「起立、礼」の号令が統の声で聞こえる。号令は学級委員が掛ける。椅子をスライドさせる音が聞こえ、統が一番初めに出て来た。教師よりも早く。
 静音と子供に会いたい気持ちは同じだ。バスの中で「絆って名前にすると言ってたよ」と教えた。
 「知ってる。それなら絆に音で〝なお〟にすれば良いと提案した」
 絆の音。綺麗な名前だ。それも良いなと思った。
 空がオレンジの夕暮れの色に変わっていた。秋の空は高い。信号で止まったバスの窓外を、赤トンボが悠然と横切って行く。
 病院の前に有る大型ショッピングモール内のケーキ店で、静音に何を買って行くか統と相談した。プリンは父が買って来る筈だ。
 「苺のムースにしよう」
 統が言う。
 「いや、レアチーズケーキが良いよ」
 二人で悩んで結局、両方買う事にした。ケーキ店の後、花屋に入った。また二人で何の花を買うか悩み、花の数の意味や花言葉を検索して白いバラを十二本にした。「感謝・希望・愛情・真実・栄光」等の意味が有るそうだ。
 病室に花瓶は無いだろうから、店内に陳列されていた花瓶も一緒に購入した。ケーキも花束も、もちろん割り勘にする。バイトする暇が無い理数科の悲しさで月々小遣い制だ。こんな時に早く働きたいと切実に思う。
 病院に入ると、統は身を硬くしている様に見えた。人を殺める時ですら平然としていた彼が。
 静音の病室は四0五で、二人部屋だと母からLINEが届いていた。偶数の番号の部屋は反対側の通路で、水色のカーテンだ。そちらは婦人科の病気で入院している患者用になっているらしい。入院着も水色だった。
 四0五の病室に入る。薄いピンク色のカーテンが片方は閉まっていた。隣の人は眠っている様だ。母は売店にでも行っているのか、席を外していた。
 静音は横になっていたものの、目を開けて窓を見ていた。布団越しに、腹部が凹んでいるのが見て取れた。その隣に、小さな小さな赤ん坊が産着に包まれて瞼を閉じていた。その手のサイズに目を見張った。それは頑なに握られているが、爪も皺も確かに有った。全身が新しい細胞なのだと見て直ぐに感じた。統が息を飲んだのが伝わって来る。
 「二人で来てくれたの?」
 静音が身を起こした。こちらを見た彼女の顔に丁度、窓からの紫がかった夕陽の残滓が差す。黒髪が栗色に照らし出されている。その姿は教会で目にしている聖母と重なって見えた。
 「おめでとう」
 口を突いて、祝福の言葉が出る。統が茫然と立っているだけなので、花束を渡した。
 「綺麗……ありがとう」
 静音が笑った。あれ程、感情の起伏の無かった静音の顔が笑みに満ちている。ちゃんと笑うと、彼女の頬には笑窪が出来るのだと初めて知った。
 「静音。ありがとう」
 統は花束を持つ静音の手を取り、声を絞り出した。
 そうだった。彼の子供だから〝ありがとう〟という言葉が出る。自分には、それが言えない。感覚として出て来ない言葉だった。
 「あんた来てたの。早かったね」
 母がやって来た。片手に小さなビニール袋を下げている。栄養ドリンクやスポーツドリンクが透けて見えた。
 「あら、統君も来てくれたの」
 母は目元を笑わせた。涙袋が大きい母が笑うと慈悲深く見える。
 「こんにちは。この度はお世話になりました」
 礼儀正しい口調で統が挨拶する。見るからに優等生な統を、当然だが母も父も気に入っていた。
 「赤ちゃん、抱っこしてみる?」
 母が慣れた手付きで赤ん坊の産着を整えながら言う。
 「いいよ、寝てるみたいだから」
 赤ん坊は口をふわふわと動かしている。寝ているのか起きているのか分からない。落としたら大変な事になる。怖くて持ち上げられそうにない。
 「静音、持ってみて良い?」
 統は静音に確認し、彼女が頷くと廊下に設置されている消毒液で手を濡らした。母が赤ん坊の首を支える様にして抱き上げた。産着の下に敷いていたバスタオルごと。
 統は慎重に母から赤ん坊を受け取り、左腕で今にも取れてしまいそうな柔らかな首を支えていた。
 この生命体が静音の中で育って出て来たなんて、信じられない。思わず指先で赤ん坊の頬に触れた。
 「こら、手を消毒したんかね」
 母に注意された。その時、父の声が背後から降って来た。
 「わ、立派な子が生まれたな。静ちゃんにプリンを買って来たんだ」
 父はさっき統と寄ったケーキ店の箱を持っていた。静音が笑っていた。
 秋の夕日が温かく手を伸ばしている病室に、誰もが幸福だと認める光景が広がる。殺人をしてもそれを幇助しても、死体を遺棄しても近親相姦を繰り返した果てに子供が産まれても、何の罰も咎も無い。では、それらは罪ではないという事なのだろうか。
 
 静音は六日間入院し、出産から一週間目に自宅に戻って来た。
 赤ん坊の名前は〝絆〟に決まった。湯本の名字で出生届が出された。認知は未成年でも可能だった。役所には静音の現在の法定代理人である掛河さんを含め、静音が絆と共に退院した直後それぞれの車で移動して皆で立ち寄った。
 母乳の出が良くないという事で、授乳は粉ミルクも活用する。ミルクの作り方、哺乳瓶の洗浄の仕方を覚えた。
 静音と絆が常にベッドに居る状態だった。隣の部屋で一人、布団を敷いて横たわる毎日。絆が猫に似た声で泣いていると、自分には子供が居るんだと誰かに教え回りたい位に嬉しくなった。
 出産前後の静音の頬は以前に比べて健康的になったものの、退院後には再び痩せこけていた。産後に食欲が無くなったせいだ。母乳は血液から出来ている。母乳を出す程に彼女は痩せ、貧血も酷くなって行った。
 絆に対し、静音の愛情が薄い様に見え始めたのは一か月健診の頃だった。絆の発育に問題は無く、遺伝子情報が五十パーセントの二卵性双生児から生まれた子だが障害は現時点で見られない。夜泣きも少なく、育て易い子供だ。それなのに静音は常に険しい顔をしていた。又は暗い表情で殆ど喋らない。
 妊娠中の彼女は悪阻の時期を除けば、とても穏やかだった。今は産後鬱の症状が有る様に思える。
 十七才の出産という事で、保健師が定期的に訪問に来る。保健師は母に「静音さんを心療内科へ連れて行って下さい」と言っていた。
 静音は心療内科には行きたがらず、髪を大量に引き抜いたりベランダから下を長時間眺め続けるという行動が繰り返し有った。
 ある夜、絆が泣いているのに静音がベランダから戻らずにいた。絆のオムツをチェックし、濡れていたので替えた。ミルクを作ってみたが飲まない。抱き上げてあやした。しかし、三十分経っても泣き止む気配が無い。
 静音でなければ泣き止まないと思い、いったんベッドに絆を寝かせた。
 十一月の夜は冷え込む。ベランダに出て、柵に載せられている静音の手を握った。骨の形が分かる手の甲は、極限まで冷たくなっていた。
 「絆が泣いてて、どうしても泣き止まないよ」
 話し掛けると、静音は下側をずっと見ている。薄暗闇には団地の裏地である草叢が広がっている。
 「絆と一緒にじっとしていると、嫌なことをたくさん思い出すの」
 話し出した静音の睫毛の形は、統とそっくりだった。
 「どんな?」
 「変だと思うかもしれないんだけど、私は赤ちゃんの頃の記憶があるの。カーテンの模様を見ていたこととか。オムツのパッケージの写真を見ていたこととか。統とベビーベッドに入れられて泣いていたこととか、喉が渇いて苦しかったこと。統がいつからか泣かなくなったこと」
 一瞬、統が死んだという意味かと思った。
 「あ、サイレントベビーってこと?」
 「たぶん。だから統は冷酷なの」
 統はきっと、赤ん坊の頃に感情の一部を切り離して殺したのだなと思い至る。湯本さんは当時から、酷い母親だったのだろう。
 「絆は女の子だから、守りたいの。怖くて気持ち悪い男達から。なのに私には今でも、まだ自分を守る力も無い。死にたくなる」
 「死にたくなるなんて、絆がいるんだから言っちゃ駄目だよ」
 咄嗟に言ってしまう。静音が考えている事や感じている事は、具体的な想像が出来なかった。
 「否定する言い方をして、ごめん」
 慌てて言葉を重ねたが、静音は光を失った目で機械的に首を振った。
 「私のこと、好きでいてくれる?統が私に思う気持ちよりも」
 真顔で彼女は尋ねて来た。観念的な質問だと思った。想いの量なんて、本当は比べられない。それでも答えるべきだった。
 「統よりも強く、好きだよ」
 「ありがとう」
 静音は部屋に戻り、絆を抱き上げた。妹を抱っこしている姉にも見えるが、若い母親にも見える。静音の表情は大人びて見える時と、あどけない時との差が激しい。
 
 健診や予防接種の時以外、静音は外出をしなくなった。統の家にも行かない。
 統とは時々、電話をしていた。何を話していたのかは知らない。彼は静音の〝兄〟として又は絆の〝伯父〟としてニ週間に一度程度、手土産を持って訪ねて来た。静音が食べられそうな果物やゼリー等を片手に。
 彼女はいつも、暗く沈んだ表情のままだった。統が来ても喜ばない。彼と二人きりになるのも避けていた。
 絆の世話を日中、手伝ってくれている母に相談しても「静ちゃんは大変な家で育ったんだろうから」とか「産後は憂鬱になりがちだ」と言うばかりだった。
 統には学校で、静音の様子を話していた。彼にもどうすべきか分からない様だ。「静音の人格が変わった様に感じる」と彼は言い「俺は静音に必要とされていない」と後ろ向きな事も洩らした。
 双子というのは、離れていても引き合って見える。二人共が同様に鬱に思えた。
 絆は生後半年になり、目を覚ましている時間が長くなった。静音に似ていて、見る度に可愛いと思う。たとえ自分の子ではなくても無条件に守りたいと感じた。それが自然な感情だと思うのだ。

 学校から戻り、親の家に置いてあるベビーバスで絆をお風呂に入れた。少しの間、静音が自由に過ごせる様に可能な限りの育児をしようと考えている。
 絆を寝かせた後、またベランダに出ていた静音を呼んだ。どんなに寒くても、彼女はコートも着ない。外気に触れながら下の草地をずっと見ている。景色を見るのでなく。
 静音の顔から、また表情が消えている。表情が無くなったのは、いつからだっただろう。絆が生まれてからの日々は目まぐるしくて思い出せない。
 携帯が鳴っている。また統かなと思いながら携帯を見た。案の定だ。
 『あの人が死んだ』
 携帯の画面を通話の為にスライドさせると、いきなり統の声が飛び込んで来た。
 彼が〝あの人〟と呼ぶのは湯本さんだ。
 「死んだって……何で」
 『分からない。状況から考えて自殺だと思うが』
 統は造作も無く言った。今日の天気は雨だと言うのと同じ口調で。
 『現時点で不審死だと父に警察から連絡が有った。山中で餓死していたそうだ。事件性は無いと見られている。一応、薬物の使用の有無を調べる為に行政解剖されるそうだ』
 統の抑揚が無い声を聞きながら湯本さんはどんな思いで山の中に最期、居たのだろうと想像した。お婆さんが亡くなった事が切っ掛けになったのか。自分が静音の養育について、湯本さんを責めたせいも有るだろうか。だが、後悔はしていない。行方不明になっている夫の存在も、湯本さんの精神を削る要因になったとしたら……間接的に統は、そして静音は母親を殺した事にもならないか。自分も手伝った身ではあるが。
 「静音がおかしくなるかもしれない」
 口にすると、その予感は明確な輪郭を持っているのを感じる。それを聞いて、統が軽い吐息と共に笑った。
 『静音は再会した当初から、とっくに破壊されていたよ。どうやっても何をしても直らない。お前が仮に静音を普通の女に戻せたら、俺も只の双子の兄に戻る事にする』
 もう統は、彼女を諦めている口振りだった。彼が真剣に恋愛をしていたのか、それとも手近に居る異性を性の捌け口にしていたのか分からなくなった。
 電話を終えた後も、統の低い声音が耳に緩い残響となっていた。何かをする為に必要な気力というものが、徐々に冷えて固まって行く。
 統の静音に対する意識は、太く揺るぎの無い柱だと思っていた。だからあらゆる事を彼に譲って来た。一切の躊躇無く、静音の為に人を殺めた彼の動作。今も目に浮かんで来る。あれは単なる彼の怒りと苛立ちでしかなく、正義でも愛情でもなかったのだろうか。自分は一体何に対して、彼に劣ると思い込んで来たのだろう。
 静音にどの様に伝えようか、考えながら携帯を机に置いた。
 「何かあったの?」
 部屋に入らず、静音が廊下で立ち尽くしていた。ベランダから彼女を呼び寄せた後、統からの電話を取ったのだ。聞き耳を立てるまでもなく、会話の雰囲気を察して彼女は怪訝な顔をしている。
 「湯本さんが……お母さんが山の中で亡くなっていたって。餓死だって統は言っていた」
 お婆さんの死の知らせを受けた時と同様に、静音は顔色を変えなかった。
 「そう。死んだの」
 部屋の明かりを消した彼女は、絆の隣に横になった。
 心配なので、ベッドの近くでアプリのゲームをしながら様子を窺っていた。
 彼女は眠ってはいない様子だ。何度も寝返りを打っている。
 「静音、寝つけないの?」
 問い掛けてみた。確実に聞こえている筈なのに、彼女は返答をしない。
 今は気持ちの整理が必要な時だろうから、これ以上は話し掛けるべきではないと悟った。早々にゲームを切り上げ、隣室で勉強する事にした。
 
 翌日に学校から帰宅して、まず親の家に顔を出した。母は絆が生まれて以降、午前中だけパートに出ていた。午後は必ず絆の世話をしている。静音が昼寝をする時間を、確保出来る様にと。
 絆は今のところ風邪も引かず、元気に過ごしていた。「あー」「うー」「まんま」と話す。静音を「ママ」と呼んでいるのだと思う。
 手を洗ってうがいを済ませ、絆の手を握った。ミルクの匂いがする。絆に触れると、学校で感じる窮屈な思いが直ぐに消えて行く。
 静音の様子を見ようと部屋を移動した。「ただいま」と玄関で言ったが返事が無い。寝ているのだと思い、鞄を自室に置いた。何となく静音の気配が無いと、その時点で気付いた。
 隣室の障子を開ける。誰も居なかった。静音の服を入れてある透明な衣装ケースを見る。中身が半分以上も減っている。外側から判別出来た。
 静音は携帯を持っていない。現金も、それ程は持っていない筈だった。産院に居る時、母が五千円を持たせていた。売店で本を買ったり自販機で飲み物を買える様にと。
 「母さん、静音がいない」
 慌てて親の家に戻り、告げた。声が焦って上ずる。母が「散歩に行ってるだけだろ」と妙に間延びした声色で言った。
 静音の服が何着か無いと伝え、その場で統に電話した。彼の家に戻っている可能性が最も高いと思ったからだ。
 『来ていない』
 事情を話すと、いつもと同じ淡々とした声で統は答えた。
 『母親の話をしたよな?』
 統の口調は問い詰めている雰囲気ではない。確認をしていた。 
 「したよ。動揺はしていない様子だった。寝付けない様ではあったけど」
 今朝の静音は、普段と同じだった。沈んだ声音ではあったが「いってらっしゃい」と学校に送り出してくれた。
 『まさかとは思うが、死なないよな』
 統が何を言っているのか、直ぐには理解出来なかった。
 「静音が?絆を残して?」
 『母親が静音を残して死んでいるんだ、静音も絆の事なんて考えられる訳が無いだろう』
 愛情不足やネグレクトは連鎖すると、統は暗に言っているのだ。統も静音と同じく、母親に顧みられずに育った。静音の思考をこの世で最も的確に追える。
 統との通話を終えてから、母に湯本さんの話をした。正確な死因は行政解剖をしてみないと分からない事も。
 「すぐ警察署に行って、家出人の届を出した方がいい。静ちゃんは死にに行ったのかもしれない」
 母はそう言ってから、目を逸らした。
 「静ちゃんは絆を産んだばかりで体の調子も戻ってなかったろ?精神的にも不安定な時にお母さんが、そんな死に方したなんて……」
 母の目元と鼻が赤くなった。
 「十七でそんなこと、背負い切れないよ、静ちゃんが可哀想だ。もっと優しくできたはずなのに。もっと踏み込んでやれば良かった、あの子の心に」
 何も知らずに眠っている絆の手を握って、母は泣いた。押し殺した声だった。胸が潰れて行く様な声。
 静音の心に踏み込まなかったのは、誰よりも自分だった。きっと、統よりも。母の泣き声と共に、全身の力が抜ける。魂が音も無く粉々にまで割れて消えて行く様だった。
 
 父が帰宅してから、父と共に最寄りの大きな警察署に出向いた。家では母に絆を見て貰っている。
 静音が未成年者である事、彼女の普段の言動から自殺の可能性が有るという判断で特異行方不明者に該当するそうだ。積極的な捜査対象になるという。
 家に戻ってから、統に電話した。警察署で言われた事、手続きの内容を逐一報告した。全て聞き終わってから、統は短く息を吐いた。
 「静音は、祖母の家に行ったかも知れない」
 あの家……あの死体が在る家に、今更行くだろうか。
 「独りで?そんな。正気じゃないよ」
 そう答えると、統は暗く乾いた声でふっと笑った。
 「静音はずっと昔から、正気では生きていないんだよ。お前は何か勘違いしている。静音を清純な女だと思っているんだろう」
 統の見ていた彼女が分からないので、黙っていた。
 明日、互いに学校を休んでお婆さんの亡くなった家に行ってみる事になった。緊急事態という事で両親も制止はしない筈だ。
 統との電話を終えると、二十三時過ぎだった。
 静音が居ない部屋は、光が削り取られた様に虚ろだった。
 絆の世話は母がしている。誰も居ない空間で、誰からも切り離された心境だった。吐き気がする程、寂しい静寂が広がっている。
 静音は、この孤独感を知っている気がした。彼女の場合はこの孤独からもう一歩、更に踏み込んだ絶望をかかえながら生きていたのだと思った。
 もう静音はこの世に居ないかもしれない。気配が無い。彼女の心の気配がどこにも感じられない。それに気付くと両手が震えた。
 涙も出ない。壁にハンガーで下がっている制服からベルトを引き抜いた。勝手に体が動いているのを、薄い意識の流れの中で傍観していた。
 トイレのドアノブにベルトの端を掛けて二重に結んだ。輪を作り、金具を通す。革のみの部分に首を滑り込ませた。心臓がどくどくと鳴っている。
 トイレの床側に足を投げ出す。トイレの床と廊下には段差が有る。首の一点に力が急に掛かった。眼球に血が集中するのが分かった。頭が痛い。静音の声が、鋭く耳に刺さって響く様に思い出された。
 …………激しい金属音。ドアノブが床を転がって行く。ノブが外れたのだと気付くまで咳き込み続けた。
  自分は今、何をしようとしたのだろう。静音の顔、絆の顔、母の顔、父の顔が次々と涙と共に浮かんだ。まるで水の中に居る様だった。血を流す様に涙を流した。
 こんなふうになってまで、生きないとならないのか。静音が言っていた事を思い出した。
 ───── ……なのに引きずられるみたいにして、こっちに戻らされた。誰かに……。あれは誰なのか見当がつかないけど、神様なのかも…… ───── 
 カトリック教会では、自ら死を選ぶ事が罪だという。何故、罪なのか。今、死ねなかったのは神の力が働いたのか。これは統が言っていた〝現象〟か。分からない内は生きないとならないのか。

 朝、両親や統に首を吊った痕を見られない様にタートルネックのカットソーを着た。
 父は既に出勤していた為、母に静音の行方を統と捜して来る旨を話した。母は学校に休む事を連絡してくれたが、ずっと何かを考え込んでいる表情だ。
 「静ちゃんは、そこのおばあちゃんの家に居るんだろっか」
 簡単な朝食後、温かいほうじ茶を啜りながら母が思案顔のままで言った。
 「分からない。古くて寒い所だし、あんまり良い思い出もなさそうだけど……統が気になるって言うから」
 出来る限りの事をしていないと落ち着かないのだ、統も自分も。
 携帯と財布をコートのポケットに入れ、出発した。統とは駅で待ち合わせしている。今日も曇り。雨や雪が降っていない日を、この地方では一律〝晴れ〟と表す。
 LINEで九時に待ち合わせしていた。十五分も前に着いてしまったが、統は先に待っていた。グレーのピーコートを着て珍しく黒縁の眼鏡をかけていた。
 「あれ、早いね。今日は眼鏡?」
 「コンタクトを入れる余裕が無かった」
 統がコンタクトを使っている事も、今まで知らなかった。親友だとこちらは勝手に思っているが、意外に彼について分からない事もまだまだ沢山あるのだ。
 切符を買って電車に乗り込む。平日の九時台、田舎の方面に向かう電車だからか、人影はまばらだ。
 「静音に会ったら、何て言おう」
 窓の外を見ながら統に話し掛けた。窓には灰色の雲が広がった空と、茶色の田んぼがどこまでも伸びている。何の変哲も無い寂しい景色。
 「迎えに来た、帰ろう、で良いんじゃないか」
 物憂げに統は言う。窓枠に頬杖をついている。静音と二人で会う機会が減ってから、彼の横顔は益々シャープになっている。静音の存在が近くに感じられない事で、食欲が減ったのだろうなと想像した。
 「統にとって、静音は何?双子の妹?彼女?本当だったら奥さんにしたいと思う様な存在?」
 ずっと聞きたかった事を尋ねる。
 統がこちらを向いた。
 「お前に言っても分からないよ」
 一度そう答えてから、溜め息を吐いた。
 「ごめん。不親切な答えだった。静音にとっての俺がどんな存在なのかだったら分かりやすく答えられる」
 彼にしては歯切れが悪い。それだけ重い間柄なのかと思う。
 「俺は静音を守る為に生まれたと思っている。静音がいつも俺の後ろに隠れている様に他人からは見えるだろうが、俺が静音の影だと自分では思っている」
 話している統の表情の色が、言葉よりも雄弁にその事を説明していた。
 「じゃあ、静音は統にとっての光なんだね」
 統は頷いて、窓外を流れていく木々を眺めている。彼の目に極度の不安と、怯えとを見てしまった。
 こんな頼りの無い顔を統がするなんて。
 もしも静音がこの世界を後にしていたら、彼はどうなってしまうのだろう。あのお婆さんの家で、彼女の自死を選んだ亡き骸が有ったとしたら……そこまでを考えて、身震いした。全身が凍り付いていく感覚を覚えた。統は、きっと人目を憚らず泣くだろう。もしかしたら静音の様に、完全な無表情になって二度と笑わないかも知れない。その時、自分には何が出来るのだろう。
 昨夜、死のうとしてしまった事。心底申し訳ないと思った。統を支える役割が有るのに放棄しようした事になる。昨夜は統の顔を思い返す事すらしなかった。
 これまでは静音を間にして意地を張り合っていたが、もうそんな詰まらない事は止めよう。何が有っても統は親友なのだから。
 向かい合って座っていたが、統の隣に移動した。右手で彼の左手を握った。静音と同じで冷たい手だった。
 統の手は一瞬戸惑った後、やや控えめに握り返してくれた。
 
 寂れた駅に降り立ち、お婆さんの家まで辿り着いた。小雨が煙の様に降る。コートを通して肌に冷気が染み込んで来る。嫌な天候だ。
 あれきり統は無言だった。建て付けの悪い戸を、彼は巧く動かして開けた。
 玄関から中に入ると真っ暗だった。もう電気が通っていないのだと気付く。統がiPhoneの懐中電灯で内部を照らした。慌てて携帯を出し、それに倣った。今回は土足のまま家に上がり込んだ。
 二本の光の筋が、埃の溜まった廊下と壁の染みを照らし出す。
 「二手に分かれて探すか?」
 統が一歩先を歩きながら言う。
 「一緒に行こうよ。第一、この家の構造が詳しく分からない」
 統が少し笑った気がした。怖いのは事実だ。この家は、ただでさえ雰囲気が怖い。それよりも互いに一人になり、統か自分のどちらかが静音の遺体を見つけ出すのが怖かった。見つけるなら二人で。受け止めるなら二人でだ。
 統は居間の奥の襖を開けた。居間には炬燵がそのままになっていた。こんな所で、たった独りで亡くなったお婆さんを想った。この炬燵に入って過ごした短い時間と、あの日に在った事を思い返す。
 襖の奥の部屋には仏壇が有り、その上に神棚が有った。洋服ダンス、鏡台、テレビ、畳まれた布団。
 「この部屋で葬式をした。ここで祖母に一晩付き添っていた」
 統は溜め息と共に話し、仏壇の蝋燭を灯した。続いて線香に火を点け、三本を立てかけた。
 「線香は一本じゃないの?」
 「この家は三本だ。真言宗だけど」
 宗派によって違うらしい。祖父母の家だと一本だった。とりあえず統の真似をして三本の線香を立てた。
 二人で少しの間、手を合わせた。
 統が立ち上がって、縁側に続いている障子を開けた。下側が透明な戸だった為、草木の生い茂る縁側が見えた。
 短い廊下に雑多な物、壺や本が積まれていた。小さな押し入れが有り、統が戸を開けるとその中にも物がひしめいていた。
 「アルバムが有る」
 背の高い統が更に背伸びをして、押し入れの一番上に有った分厚いアルバムを取り出した。
 埃を払って見ていく。お婆さんの若い頃、隣に居るのはお爺さんの若い頃だ。夫婦になってからの写真が並んでいる。
 「これ、統達のお母さん?」
 「だろうね」
 赤ん坊が産まれた後の写真だった。その後、湯本さんの幼少期、思春期と写真が続いていく。
 「この写真、ちょっと静音に似てない?」
 中学の入学式と思われる写真が、少し静音に似ていた。
 「似ていない。気持ち悪い事を言うなよ」
 統は掻き消す様に、不機嫌に言った。
 彼にとって、湯本さんへの感情は複雑なのだと思った。静音に似ているなんて思いたくないのだろう。
 統がアルバムを閉じた時、携帯が鳴動した。
画面を見ると父からだった。緊張で心臓が縮まる。
 『静ちゃんが山の中で保護された。今、北貝病院にいる。低体温症だそうだ』
 携帯に顔を近付けて耳をそば立てていた統が
こちらを見た。初めて見る、彼の必死の様相だった。静音の安否に一秒一秒、魂を削られている同志だと思えた。
 これから北貝病院に行くと返答して、通話を切った。
 「静音は何で低体温症になったんだろう。それって、どうなる?」
 統に聞くと、彼はすでに立ち上がりかけていた。
 「山で母親の真似をしたんじゃないか?三月の山の中でなら凍死が出来る。低体温症は三十四度以下まで体温が下がる。意識が朦朧として混迷する。歩行困難になる。血圧が低下して呼吸や脈拍が減少する。体温が十七度くらいになると……死ぬ」
  いつもより統の声が低い。その表情は苦々しく、何かを堪えている様にも見えた。
 「早く病院に行こう」
 「もちろん。その前にあの死体の様子を少し見て来る」
 こんな時に統は、とんでもない事を言い出す。
 「何で、今?」
 「こんな所に来る機会は滅多に無い。祖母の通夜の時にもチェックした」
 統はお婆さんの遺体が眠る家で、夜にあのトイレに行って死体がどうなっているか確認したのか。考えただけで恐ろしかった。自分なら仮に静音に頼まれても絶対に出来ない。
 「時間はかからない。先に玄関で待っていれば良い」
 素早く統は部屋を出て行く。急いで後を追った。
 時々、夢に出て来る台所。薄暗いと言うより殆ど真っ暗だった。そこにすら入れず待っていた。
 この家には、二度と来るつもりは無かった。それなのに……。
 統が戻って来た。
 「どうなってた?」
 思わず聞いてしまい、直ぐに後悔した。
 「本当に聞きたいのか?」
 普段通りの理知的な目で統はこちらを見る。どれだけ先の事を考えて、彼は行動を起こしているのだろうと疑問と恐れが浮かぶ。
 「本当は聞きたくない」
 率直に言うと、統は「知ってる」と答えた。

 北貝病院の受付で静音の名前を告げ、統は兄だと名乗った。待合室に先に来ていたらしい父が現れた。
 「掛河さんが来なさるから。もう少し待っていよう」
 父はそう言った。目の下が心配のあまり落ち窪んでいる。
 「容態は分からないの?」
 尋ねると「分からないが発見者によると、受け答えが出来たようだ」という答えだった。
 掛河さんは忙しいだろうに、大学から車でやって来た。珍しく慌てた様子だった。その後に絆を抱っこ紐で抱いた母が、タクシーで駆け付けた。絆は眠っている。母の顔色は青白い。父も母も静音を実の娘の様に思っているのが判る。
 静音の居る病室は個室だった。ベッドの近くで立ち働いていた看護師に尋ねると、処置中だが話せるとの事だ。
 静音は点滴を施されて寝ていた。顔を僅かに傾け、目は皆が居る廊下を見ている。物憂げな、それでいて哀しげな目。
 「電気毛布を使っています。体温は平常に戻っていますよ」
 看護師が小声で伝え、足早に立ち去る。
 「静音」
 真っ先に統が病室に入り、点滴をしていない方の彼女の左手を取った。
 その途端、静音の目に涙が溢れた。涙は流れてシーツに沁みていく。
 「静ちゃん。絆だよ」
 母が、眠る絆の顔を見せた。
 静音は嗚咽も無く涙を流し続ける。
 「静音、何も聞かないよ。何も言わなくて良いよ。帰って来てくれて、ありがとう」
 彼女の隣に行き、しゃがみ込んで目を合わせて伝えた。
 「ごめんなさい、ごめんなさい」
 静音は細い声で繰り返した。何度も何度も。
 「いいよ、喋らなくても。大丈夫だよ」
 彼女の謝罪に被せる様にして言うと、静音は起きようとした。それを統が制止した。
 「私、ママの所に行こうと思ったの。ママが最期に見たのはどんな風景なのか、山の中を歩いたの。最初はママみたいに旅館で働きたいと思って面接に行ったけど、まだ十七だから駄目だって言われて……それで山に行ったの。絆を捨てるつもりだった。ママは私を捨てたから、私には価値がない。価値がないのに絆を育てられるなんて思えなかったから」
 静音は一気に話し、吐く様な仕草で咳き込んだ。
 母が絆を抱っこ紐から降ろし、静音の隣に寝かせた。
 「静ちゃんが今は絆のママなんだよ。静ちゃんにしかない価値が、絆にとってはあるんだよ。もらえなかった愛情を絆にあげるんだ、そしたらね、気持ちが満ちるから。手伝うから大丈夫だ」
 静音は息が出来ない程に大きく咳き込みながら、更に泣いた。
 「私には優しくしてもらう価値はないんです。この子は本当は、誰の子供かわからないの。優しくして頂いたのに。結婚なんて出来ない。ごめんなさい」
 今度は誰もが黙っていた。様々な可能性を父も母も掛河さんも、短時間で考えたと思う。単に他の見知らぬ誰かの子なのか……それとも、静音に虐待をしていた人間の子供なのか。
 静音が統の子供だと告白しなかったのは、実際、自分と統のどちらの子か真実が分からなかったからだろう。が、さすがに兄の子供の可能性が高いとは言えなかったのだと思った。
 「退院後は、静音と絆は家で面倒を見ます」
 重々しく掛河さんが口を開き、両親に深々と頭を下げた。
 「俺は知っていました。自分の子ではないかもしれないって。それでも生まれて来る子供に罪はないから、静音と結婚するって決めたんです」
 しゃがみ込んでいた姿勢から、立ち上がって言い切った。
 統が唇を引き結んで俯き、口を噤んでいる。彼は今、話すべきではない。それを分かっている目をしていた。
 「今は、ゆっくり静ちゃんを休ませないとな。難しい事は後で考えよう。なんにしろ、生きてて良かった。静ちゃん、これで良かったんだからな。神様が生きろって言ってたろ?体を大事にしないとな」
 父が静音の頭を撫でた。静音は毛布に潜り込んで泣き続けている。

 静音はその後、肺炎を起こして入院が長引いた。絆の世話を母が引き続きしていた。
 学校の帰り道、静音の見舞いに行く事にした。統と行く事も有ったが、相変わらず彼女は言葉少なであり表情も殆ど動かない。
 その日の静音は身を起こしていた。入院も十日目。点滴を長くしている為に、両腕の肘の内側が痣になっていた。左腕から右腕の点滴に変えた後、今は右手の甲から点滴をしている。
 「静音、具合はどう?」
 売店に寄り、スイカのゼリーを見つけて買って来ていた。遠い夏を思い出せる味だろうと思い、売店で付いてきたプラスティックのスプーンを出す。
 「食べられる?」
 尋ねると、静音は頷いた。
 彼女の利き手が点滴中の為、蓋を取って一口掬った。唇へと運んで行くと、彼女は美味しそうに口にした。
 「真夏の味がする」
 「そう。良かった」
 「サトシも食べたら」
 不意に静音に名前を呼ばれた。
 彼女はいつも〝あなた〟という呼び方をしていた。統の事は名前で呼ぶ。だからか、どうしても自分の比重が軽い様に感じて来た。初めて名前を呼ばれた気がする。自分の名を思い出した様な、軽い衝撃が有った。
 「諭史、ごめんなさい。あなたとは結婚できない。少なくとも、今は。諭史の将来を、ねじ曲げてしまうから。私はパパと統の家に戻って、絆を育てる。もしも大人になってから、まだ私を憶えていたら……こんな事を言ったら、良くないのかもしれないけれど、大人になってまだ好きでいてくれるのなら、迎えに来て。それまで諭史を、ずっと、忘れずに、好きでいるから」
 静音は涙を目から零しながら、ひとつひとつの語句を輪郭を描きながら声に出した。彼女の言葉が湯で出来た雫の様に、胸に温度を保ちながら沁み渡っていく。
 「迎えに行くよ。就職したら、すぐに行く」
 彼女の言葉に重ねて応えた。
 「諭史は大学に行かないとね。成績が良いんだからもったいないよ」
 真白い手が空気を織り交ぜながら髪を撫でてくれた。
 
 絆が伝い歩き出来る様になった頃、誕生日を迎えた。
 十八才。
 二か月前に統と静音は誕生日を迎えていた。当初の予定なら、これで入籍していたのだが。
 今、静音は統の家で絆を育てている。彼女と自分、そして親同士の話し合いで決まった事だ。
 大学入試に向け、予備校に通い始めた。統と同じ大学に行く事を決め、猛勉強している。
 精神科医になりたいという目標が出来た。静音の様に深い傷を負いながら生きている人を助けられる人間になりたい。
 目の前を、薄いピンクの花柄のロンパースを着た絆がテーブル伝いに横切ろうとしている。静音が細い毛糸で編んだ、可愛らしい赤いカチューシャを着けている。
 そっと手を添え、絆がテーブルの角にぶつからない様に補助した。代理石のテーブルには統が取り付けたシリコン製のコーナーガードが有る。それでも一応、手を添えなければと心配になるくらいに絆の肌は柔らかく、動きも危なっかしい。
 静音と絆には、一週間に一度は会いに来る。静音は編み物をしたり料理をしたり本を読んでいたり、穏やかに過ごしていた。彼女の表情はいつ見ても和やかだった。
 統は相変わらず時に皮肉屋だが、以前程ではない。静音と絆が常に隣に居る状況で安定しているのだと思う。彼は微笑しながら絆を見守っていた。純粋な、優しい眼差しだった。
 「今日は土曜だからミサ?」
 静音が膝の上のかぎ針編みをバスケットに片付けながら、こちらを見た。見事な薄手のショールを編んでいる。美しい藍色の。
 「その前に洗礼のための勉強会があるよ。ミサの後は泳ぎに行く」
 受洗を希望し、教会に通っているのだった。教理を学ぶ事は楽しみの一つだ。
 それから一度辞めたスイミングスクールの、競泳選手コースに再び通い始めていた。統に勝る部分が有るとすれば、この分野くらいだろうから。無心になれる瞬間は泳いでいる時にしか訪れない。祈りよりも確かに、主と世界と一体になれる。
 絆の小さな頭を撫で、ソファーから立ち上がった。
 広い窓から七月の午後の陽射しが目一杯に降り注ぐ。ここには誰にも侵されない幸福な領域が有る。